長野県および各市町村自治体に、このプロジェクトを提案します <3>


     提案書つづき




  自然葬・樹木葬歴史


 1991年10月、「葬送の自由をすすめる会」による最初の自然葬が相模灘で行なわれました。その前年の法務省による「葬送の祭祀で、節度をもって葬法のひとつとして行なわれる限り問題ではない」とする見解にもとづくものでした。大型ヨット・シナーラ号が目的の海域に来ると、霧笛の鳴るなか追悼の言葉がながれ、袋に入った遺灰は紺碧の海に生花とともに沈んでいきました。家族が次のように書いています。
 「濃い群青の波の中に、胡蝶が舞うがごとく消えていきました。あなたが大切に育てたエビネミヤコワスレ、ピンクのカンパニュラ、青いヤグルマソウなど、色とりどりの花々が波間に舞いました。この美しい光景は、あなたが願った、『宇宙から生まれ、宇宙に還っていく』荘厳な儀式でした。」
 プロジェクトとしての最初の樹木葬は、1999年、岩手県の祥雲寺別院知勝院で行なわれました。住職の千坂氏の提唱する「花に生まれ変わる仏たち」をコンセプトに、里山保全・再生を目的として、生態系の循環、その土地の植生などを考えた里山保全葬でした。
千葉県南房総市の高照寺樹木葬墓苑は、「好きな樹木を植樹し、故人は樹木に生まれ変わり、花々や自然と共生する」という自然浄土の構想によるものでした。
里山保全葬を行っている団体では、「里山の持続的な復活再生の切り札的アプローチになる。里山の自然の中に葬られることで、里山保全につながるだけでなく、人々がふれあう場所に還ることにもなり、子や孫、親族が希望すればその地域の農生活に参加して、そこを故郷にしていくことも出来る」と提唱しました。
2006年、伊豆大島の国立公園の中に、宗教法人による「千の風みらい園」が樹木葬専用の墓園として初めて東京都の認可を受け、ペットも一緒に埋葬できる霊園として開設しました。
公営の樹木葬園は、2012年、東京都が始めました。希望者が募集枠をはるかに超えました。
樹木葬霊園は各地に広がっています。神社やNPO法人、民間企業の行なう霊園もあります。花園の庭園葬というのも出てきました。しかし、「樹木葬霊園」「樹林墓地」と名づけられても、「森をつくる」「自然に還る」ということとは程遠いものもあるようです。
樹木葬は世界でも行なわれています。イギリスでは、遺骨を埋葬し樹木を植えることは緑化など環境的に優れた効果があるとして樹木葬が評価されています。
自然のなかへの散骨を美しく描いた次のような記録があります。著者はイギリスのジャーナリストで、世界の葬送をルポに書いています。次の文章は、母と一緒に散骨によって父を葬ったときのことです。
 「私たちはヒヤシンスが咲く森へ向かった。この時期、ほんの数週間だけの輝くような短い期間だが、このあたりの湿原では木立の根元から立ち昇る青い霧が見られる。雲が漂うような神秘的な光景だ。私はこの森にいる父を写した写真を持っている。父は杖を手にし、魔法のような自然現象が広がる様子を眺めている。母はここに父の遺灰を撒くのが良いと考えていた。だが今年はヒヤシンスの開花が早く、盛りの時期を逃していたため、私たちは丘をめざした。丘に立つと、教会の全景が見渡せる。私はこの地点こそが、父が自分の永眠の地だと思い定めた場所に違いないと確信した。父は私たちの判断にゆだねてくれていた。母がハサミを取り出して袋のかどを切り取る。私が袋を振って中身を空中に放った。一陣の風が遺灰を遠く四方まで運び去っていった。」 <「死者を弔うということ」(サラ・マレー 椰野みさと訳)> 
 そこは著者の生まれ故郷、こよなく美しいイギリスの田園風景が展開するところでした。父の遺書には、「私を、美しいドーセットの教会の墓地に、美しいドーセットの景色の中に」とあり、一枚の写真が同封されていました。散骨は、父の希望だったのです。
 森茂氏(明治薬科大学名誉教授)は、「自然葬は、幸福追求権(憲法13条)、思想・良心の自由(同19条)、信教の自由(同20条)にもとづく基本的人権であると指摘し、著書「世界の葬送・墓地」(法律文化社)の中でこんな紹介をしています。
「フランスのペール・ラシェーズ墓地は、44haの敷地に多種多様な彫刻が立ち並び、中央部にシナノキ、丘にはマロニエ、道にはポプラが並木をつくり、壮麗な庭園墓地になっていて、市民の散策、憩いの場として、パリの観光名所になっている。
イギリスのケンサル・グリーン墓地には『思い出の庭』があり、メモリアル・ローズガーデンのバラの根元に骨灰を埋め、追悼のカードを置くことが認められている。
アメリカのボストンにあるマウント・オーバーン墓地は、田園墓地である。池、林がある美しい景色のなかに、樹の名前の付いた馬車道、花の名前の付いた小道が走っていて、田園風景墓地の社会施設として、都市生活者に憩いの場を提供している。」
ここには、日本の多くの集合墓地のような無機質な暗いイメージはありません。



  森という文化

日本は山林の国です。しかし、暮らしの中の森はどんどん姿を消しました。都会のなかの森はわずかです。そこで緑地公園という形で、森の復元が行なわれています。人間の暮らしの中に樹林があるということは、快適な住環境をつくるうえで、文明先進国では欠かせないこととなっています。
たとえば、ドイツの森、パリの森は、市民の身近な「歩く文化」の場として愛され、散策の小道がたくさんつくられています。都会では、自然を取り戻そうとする企画が大胆に行なわれ、樹を植えることが可能な所には樹を植え、街路樹も樹冠までうっそうと茂るように、緑化が進められています。地球温暖化の問題、都市のヒート・アイランド現象を防ぐためにも緑化は重要です。
大阪では、「人類の進歩と調和」をテーマにした大阪の万博会場の跡地に、271ヘクタールの自然公園がつくられました。そこには、常緑樹の密生林、落葉樹を中心に池をスポットにした林、サバンナのようにひろがる林などが調和しています。市民にとってはかけがえのない緑地です。この森には多くの生物が住み、生態系の頂点に立つオオタカが営巣するようになりました。
京都市内では、JR梅小路貨物駅と操車場廃止にともない、そこが「いのちの森」になりました。1ヘクタールのビオトープもつくられ、119種の樹と31種の草本が植えられ、その後自然に生えてきた樹と草がたくさん見られるようになり、2007年には3979本の稚樹が見られました。エノキ、ムクノキが育ち、多種多様なキノコが生え、トリュフも見つかっています。ルリビタキヤマガラカワセミ、キツツキなど26から34種の小鳥がやってきます。コゲラ、モズ、メジロシジュウカラなど16種が繁殖し、15年間の総計では28科61種がこの森に住んでいます。チョウは38種が確認されています。
 ヨーロッパでは市民の暮らしと森が密接です。
 オーストリアでは、森が都市の文化になり、森林社会になっています。東京23区の3倍以上の広さを持つウィーンの森には、400を超える散策路やトレッキングコースがあります。ウィーンの森は市民により、とりわけ芸術家によって見いだされました。シューベルト、ベートーベン、モーツァルトは緑したたる森で作曲しました。ウィーン市の西には、動植物の自然保護区があり、その総面積は1900ヘクタール、原生林の様相を持ち、森林の間に草地や野原が点在、年に50万人が訪れます。アカシカノロジカ、イノシシ、ダマジカ、野生羊、野生馬が生息しています。ウイーンの森は広葉樹が大部分で、ブナが最も多く、森林庁は大量にナラの樹を復活させました。鳥は147種が森で確認されています。市民にとって森は健康の泉です。水や空気を浄化し、熱を放散し、ダムように水を貯え、洪水を防ぐ役割を果たしています。ウイーンの森は、生物圏公園として、ユネスコによって承認されました。
 ドイツ文学者で、ドイツに長く住んで日本文化大使として活躍した、旧制松本高校出身の小塩節が、ドイツの川や森について書いています。
 「どんな町はずれにも、噴泉のそばに大きな菩提樹が茂っていて、五月ごろには花が蜜を生み、ミツバチがブンブンいっている。木陰には小川が流れ、青い流れのなかにはマスが矢のような速さで走っている。ドイツ人は森の民族だ。町々村々は必ず森に包み囲まれ、大都会でさえ、市街地の中に面積の五十パーセント近い森を茂らせている。森を間近にし、森のなかにいないと息ができず、生きていけない。彼らの食事は本質的に森の住民のものだ。ほんとうのドイツの料理は、ノロ鹿や野ウサギ、ハトの料理、堅い黒パンと銀モミや菩提樹の蜜と森のさまざまなベリー類のジャム、森に放牧してドングリを食べさせた豚のハムやソーセージだ。ドイツの森は、行けども行けども行きつくせない。シュヴァルツヴァルトの森は長さが百二十キロ、横の幅が六十キロの大森林である。私の住んでいたマールブルグの町も、一歩街を出れば、深い森と畑とがどこまでも続いている。ラインハルトの森は太古のままの千古不伐の自然である。」
 ヨーロッパではこのように暮らしの中に樹林をもち、森を愛する人びとは、豊かな文化を創造しました。
 ナチスドイツの強制収容所から生きて帰ってきたフランクルが著した収容所体験記録「夜と霧」のなかに、死を前にした一人の若い女性のエピソードがあります。彼女はバラックの窓から外を見て横たわっていました。窓の外にカスタニエン(マロニエの一種)の樹があり、花盛りでした。彼女はフランクルに言いました。
 「あの樹は私のただ一つの友だちですの。この樹とよく話をしますの。あの樹はこう申しましたの。私はここにいる。私は――ここにいる。私はいるのだ。永遠のいのちだ‥‥」
 死に瀕したその女性は、窓の外に樹があったおかげで、樹のいのちに支えられ、絶望の淵に沈むことなく人生を終えることができたと、フランクルが書いています。
信州は四方山に囲まれ、田園は広がり、家よりも高い木々が集落のあちこちにあります。鎮守の森もあります。が、生活の変化によって、大人も子どもたちも、森や野、小川で遊び、樹木に触れ、小鳥や昆虫、草花を楽しみ、自然を素材にして外遊びをし創作する生活が少なくなっています。このプロジェクトは、暮らしの中に森をつくり、生命力を育てる、新たな文化を育てていく活動でもあります。



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