70年前、死体を踏んだときの、ぐにゃりとした足の感触、その記憶が原因で自分の足に痛みを感じるようになったのは、年を経てからだったという。
沖縄戦を体験した人の記憶は70年たっても消えない。年を経てからその過去の記憶が足の痛みになってよみがえった。
どうして忘却しなかったのだろうか。体が覚えている死体の感触、その人にとってそれは良心の呵責に関係してくる。そしてまた恐怖に関係してくる。
沖縄では洞窟をガマと呼んでいた。沖縄の住民はガマに逃げ込んだ。アメリカ軍の攻撃は激烈だった。逃げようとしてガマから出て走ったとき、いくつもの死体を踏んでいった。どうしようもないことだった。
戦争が終わって、生き延びた人たちは、生きることに必死だった。戦時中の体の記憶は頭脳の奥にひそんでいた。それが年を経てから動きだし、その人を苦しめる。
自分を苦しめる体験を誰にも話さず、心に秘めていた。心的外傷後ストレス障害はそこから生じる。
沖縄戦のとき、民間人の男性は軍に召集されて兵隊として戦闘に参加させられた。徹底抗戦を叫んでいた軍は、女子どもも降伏を認めなかった。
死者 約20万人。
日本兵(沖縄県以外) 約66000人
米兵 約12500人
沖縄県民 約94000人
沖縄出身の軍属・軍人 約28000人
6月23日は沖縄の「慰霊の日」。
「平和の礎(いしじ)」に名前の刻まれている人は24万人。そのなかに名前のない赤ん坊が、だれそれの三男とか二女とかと刻まれている。一家全滅して、親は名前もつけられないままだった。
同じガマに隠れていた生存者の男が、全滅した一家を目撃していた。その家族のいちばん下の子どもは赤ん坊だった。一家は全滅したために赤ん坊のことは何も刻まれていなかった。目撃した男は戦後その悲しみがストレスになって苦しんだ。赤ん坊はこの世に生まれた。しかしその誕生を認めていない。それはいったいどういうことか。いなかったことになるではないか。
その子が、親の名前の後ろに五男として平和の礎に刻まれたとき、その文字を指でなぞりながら男は泣いた。
ぼくはその映像を見ていて、この深い心の男性に、やっといくらかの安寧が訪れたのだと思った。
今日現在、名前のわからない死亡者は321人、「平和の礎」に刻まれていない。
朝日新聞が、沖縄戦当時3歳以上であった生存者に対してアンケートを行ない、その結果が6月10日の紙面に掲載された。「沖縄 地上戦の記憶」というタイトルの記事、回答者の平均年齢は81.7歳。
Q1 沖縄戦やその後の収容所生活で亡くなった家族がいますか。
いる 64.5%
いない 32.5%
Q2 日常生活の中で、沖縄戦の体験を突然思い出すことがどの程度ありますか。
よくある 27.3%
ときどきある 37.6%
あまりない 20.7%
まったくない 11.8%
「ある」と答えた人に、「体験を思い出すとどのような状態になりますか」と聞くと、
眠れなくなる、眠りが浅くなる 22.4%
イライラする 17.8%
気分が落ち込む 29.1%
Q3 沖縄が将来、ふたたび戦場になる可能性はどの程度あると思いますか。
大いにあると思う 27.3%
ある程度あると思う 37.8%
あまりないと思う 13.3%
まったくないと思う 12.2%
無回答 9.4%
Q4 沖縄戦で特につらかったことは何ですか。
長い間逃げたり隠れたりしたこと 45.8%
米軍の爆撃・攻撃 31.1%
肉親や周囲の人の死 25.3%
日本兵の命令 12.5%
自身のけがや病気 7.6%
このアンケートは、実にくっきりと沖縄の現実を浮かび上がらせている。沖縄戦体験者のむごい過去は、厳然と現在の体に生き続けている。沖縄では、かの戦争が県民の体に今もなお生き続けているのだ。戦争が体に生き続けている人びとの眼前に米軍の巨大基地があり、軍用機が飛び立っているのだ。
だから、基地問題に体をはるし、戦争準備法案の安保法制をこばむ。
だから、沖縄がふたたび戦場になる可能性があると、65%もの人が感じる。