永遠の未完成


 人生を振り返ってみて、
 そして今、またこれから、何をなさんとしているか、そのことを考えてみて、
ほーっと長い溜息をつきながら思う、
 すべては永遠の未完成であると。
 人間すべてそうであろうし、人間集団がなそうとしたすべてもそうだと思う。
 このことをやりたいと思い、その実現に向けて動きもする。けれども何をなしただろう。何が実現できただろう。道半ばで終わってしまったこと、半ばまでも行かなかったことばかりだ。
 いったい完成ということは存在するのか。すべては未完成なのではないか。
 いつも心にえがいている夢がある。人間、生きている限り、今という瞬間はその夢への一ステップだ。ワンステップだから完成までいかない。しかし、考えれば、そのワンステップは、未完成でありながら完成をはらんでいる。
 こんなことを考え出したのは、最近「学校教育」「社会づくり」というテーマのワンステップに足を置いたからだった。
 自分のやれることをやっていく。打算はなし。


 宮澤賢治37歳の人生は、永遠の未完成だった。そのことを書いている。農民芸術概論綱要の結論。


 ‥‥われらに要るものは銀河を包む透明な意志 巨きな力と熱である‥‥

  われらの前途は輝きながら峻嶮である
  峻嶮のその度ごとに四次元芸術は巨大と深さを加える
  詩人は苦痛をも享楽する
  永久の未完成 これ完成である

  
 今日は安曇野ひかりプロジェクトの「どっかーんイベント」だった。
 今年の夏も、福島の子どもたちを放射能から守るために、安曇野の自然の中での保養ステイを行なう。このことについて一月から何度も討議をしてきた。「今年も実施するかどうか」から始まり、「実施するとしたらどのような保養ステイにするか」を検討し、実施するという結論になって、資金集めと広報を目的に今日のイベントとなった。
 プロジェクトに全面的に協力してくださるフリーマーケットの団体が店を出し、プロジェクト自前のバザーを行ない、支援してくださる演奏家舞踊家が演技を発表してくださった。ぼくは去年に続いて「おじいさんの古本屋」の店を出した。会場は穂高会館。
 今日一日、たくさんの親子がやってきてくれた。

 朝日新聞に「プロメテウスの罠」という連載記事が続いている。今で1307回。1286回目の記事に、こんな文章があった。
 沖縄久米島、そこに福島の子らがやってくる。一回10日の保養ステイだ。主催するのはNPO法人「沖縄・球美の里」、子どもたちに放射能の心配のない環境で過ごしてもらおうと、年間通して取り組んでいる。子どもの交通費と滞在費は無料。親が付き添う場合は、親の交通費は負担してもらう。これら費用は寄付金でまかなっている。取材記事のなかの一文。
 「滞在二日目。朝から一日中、砂場から離れない5歳の双子の男の子がいた。服まで砂まみれで夢中になって遊び続ける。」
 全身で遊ぶのが子どもというもの、自然の中で遊ぶことによって子どもは自然と一体になる。子どもの中に自然を生きる力が蓄えられる。
 福島の子らはそれを国家によって奪われた。