成熟から遠ざかる日本


 「長い物には巻かれよ」という言葉を、敗戦から数年して、小学校の授業で聞いたときは、「ヘビに巻かれる?何のこと?」だった。慣用句で、目上の人や勢力のある人には争うより従っている方が得である、という意味で、それまでの多くの日本人は、権力者に逆らわないで従ってきたという意味のことを先生は口にした。
 それから60余年、最近こんな投書の記事を読んだ。ぼくの心がぴりりと反応した。一つは5月28日の声欄の記事(朝日)、31歳の高校教員が投書している。要約すると、
 「国会前で毎週木曜日午後6時半から、戦争法案反対国会前集会が開かれる。勇んで参加したものの、端の方で演説に拍手する程度しかできず、テレビ局にインタビュー取材を求められたが断った。自分は、後ろ指を指されるようなことをしているわけではなく、正しいと思うことをやっているはずなのに。
 あのときが戦争と平和の分かれ道だったと後悔したくないから集会に来たという思いをなぜか公にできない。自分にかかっているこのブレーキは何だろう。仮に生徒が法案に反対する教員の姿をテレビで見たとして、それは考えるきっかけにしてほしいくらいなのに。
 政治への不安や疑問を公的に表明するには特別な勇気が必要なんだろうか。」
 筆者はそう問いながら、その答えを探すために次の集会にも参加しようと思っているという。この若き教員の素直な悩みと行動に、ぼくは拍手をおくりたかった。この社会と政治状況を憂えて自分の意志で行動を起こしたにもかかわらず、その思いを言えなかった。自分を縛るものは何だろうと悩む。そういう葛藤を通して、自縄自縛するものを発見しようとしている。
 もうひとつ、ぼくの心に反応した投書があった。6月2日の声欄に、74歳の男性が声を寄せている。要約する。
「自分は毎朝、地元のグラウンドのゴルフに参加している。あるとき、『あれ、はずしてくれない?』とゴルフ仲間から言われた。それは自分のクラブケースに付けてあったスローガンだった。『憲法9条改悪反対・戦争へと進む集団的自衛権行使反対』と書かれている。仲間はそれが気にいらないらしい。そこへ、仲間が4、5人集まって来て、『憲法なんか関係ない』『われわれも同じだと見られる』『みなが迷惑がっている』『はずしたほうがいいよ』と口々に言う。仲間はみな60代以上の人、自分はあの日以来、グラウンドゴルフには行っていない。」
 政治で今問題になっていることへの意志表示をした。それが仲間のつながりを阻害するものとみなされ、排除の対象となり、政治的意思表示が抑えられている。日本の集団がおちいりやすい、仲間意識の同一性を求める行為である。一人の意志表示によって、自分たちも同じように思われてはかなわない、と同調を求める。政治的信条の表現まで抑えようとする。
 社会には無数の集団が存在する。生きている限り、何かの集団に所属することになる。子どもの時代から、学校という集団、学級という集団、居住地域の集団に所属する。社会人になれば、企業や何らかの組織に所属する。それらの集団は、そこに生きる人間に影響を与える。その集団がどんな集団であるかは、構成メンバーの質による。集団の中の権力性が強いと、拘束性、同質一体性、差別性、排除性などに縛られる。そうした集団は、一時的に結束が固くても、次第に堕落し崩壊する。
 集団は、人間形成に強くかかわる。だから教育では「集団づくり」を重視する。それぞれが自分の意見をもち、それを発表し、互いに異なる考えに耳を傾け、表現・討議を尊重し、理を追究して共に生きる人間として成長する、それが教育の場での「集団づくり」の実践である。
 戦後70年、「もの言えば唇寒し」が進行していく状況は崩壊に至る道である。
 日本とアジアの状況に対して、危機感を抱いた海外の学者やジャーナリストが声明を出し、日本の学者もそれに加わっている。その数すでに500人に達している。すなわち「日本の歴史家を支持する声明」。