新任教員の退職



 

 新任教員の退職が増えているそうだ。長時間勤務や新任を支援する態勢が不十分で、精神疾患という退職理由も目立つという。東京では、公立学校の新任教員2429人のうち108人が一年で教員を辞めたと、今朝の朝日新聞のトップ記事に出ていた。

 私もかつて教員を勤めてきたことから、その職務の実態、おちいる危険性も理解している。そして生徒と共に生きる、喜び、楽しさ、生き甲斐も知っている。だが今は、学校の状態が大きく変わっているようだ。

 私の場合、大学卒業前の教育実習で、子どもたちと過ごした5週間は、夢のように楽しかった。教育はおもしろい、その思いに毎日ひたっていた。だが新任教員として中学校の教壇に立ったとき、私は重大な過ちを犯した。授業中、絶えず私語をする子がいて、何度も注意するが聞かないため、思わず叱った。その時私の発した言葉がその子の心を傷つけ、親は私に抗議し、その子を他校に転校させた。私の最初の失敗であり罪であった。人間性、人格、知性の未熟な若者が、教壇に立って子どもたちに自分をさらけだす。そこには必然的に功罪が伴う。

    新任教員は、誰の助けもサポートもなしに子どもと向き合い、ほとんど毎日、一人で「教える」ことになる。教室という「閉鎖空間」のなかで、「自己」の力量で教育実践をしなければならない。その「自己」はどのように形成されてきたか。教員としてやっていく知性、精神性、人格は未熟なまま。それでも子どもたちと交わる体験のなかで、「教育」という大変な仕事の魅力、喜びを発見し、教育を生きがいとする人格を育んでいくのだ。

 学校は、父母、地域社会とともに、学びの共同体を形成するものだ。それが学校の必然である。だが、問わねばならないのは、今の学校の教員集団、職員室に、教育にかかわる対話や研究が常日頃行われているか。コミュニケーションがあるか。それが無いとなれば、教員間は断絶し、一人一人は孤立する。さらに児童生徒と教員との間に親密な人間関係がつくれていないとなると、毎日毎日は喜びも楽しみもない。そうなると学校は自分の居場所でなくなる。

 かつて軍国主義教育から民主教育創造に変わった時、全国津々浦々に民間教育団体が澎湃として立ち上がった。日本教職員組合は、全国の学校を網羅して、全国教育研究集会を毎年開き、苦難の中での希望に燃えた教育実践をもちより、意見を交わした。

 しかしその後、国による教育統制が進み、自由な自主的な教育の気風は衰え、管理主義的教育が進行していった。学校の職員間の対立も生まれ、教員間の断絶が進んだ。

 今、学校はどういう状況にあるのだろう。教員間に、教育実践の対話が盛んだろうか。教員間は断絶していないか。孤立している教員はいないか。

 私は10年ほど前、私学の高校の講師を数年間つとめたことがあった。その時、職員室には、ほとんど自由な会話がなかった。それは恐るべき光景だった。若い教員が一年で辞めていった。

    新任教員が一年で辞めていく、そこに潜んでいる問題を究明していかねば、学校教育は滅びの道をたどる。

 教員の残業など、長時間勤務はなぜ起きるのか。何にそんなに時間を費やしているのか。

 

    私は、自伝的小説「夕映えのなかに」で、生徒とともに生きた数々の歓喜の体験と、自分の未熟さによる過ちを慙愧の思いで書いた。85歳、私の遺言でもある。