翁長さん、143年間の沖縄の心を伝えられんことを



 島尾敏雄の両親の故郷は福島県相馬郡小高町だった。九州大学の学生だった島尾は昭和18年に海軍予備学生になり、特攻隊要員になった。 1944年(昭和19)10月、震洋隊指揮官として奄美群島加計呂麻島に駐屯した。その特攻とは、ベニア板で作られた魚雷艇に乗りこみ、爆薬を積んで敵艦に体当たりするというものだった。震洋隊に出撃命令が下り、発進命令を待っていたとき、突然の敗戦連絡が入る。かくして彼は一命を拾った。この島に駐屯していた時に島尾は島の娘と恋に落ち、戦後一年して二人は結ばれている。島尾は1955年に奄美の名瀬に移住した。そして、作家として生き、その体験を小説にも著している。
 島尾に「琉球弧の視点から」(講談社 昭和44年)という著作がある。
 「私はどうしても、目をもっと高いところに据えたい。その高さは、北は北辺の極みから南は南島の果てまでが視野の中にとらえうるような位置です。過去において、日本全体が、東北の方や南島を、目の中から脱落させるか、ぼやけ、かすませたまま放置した状態で、日本自体を見てきたような気がしてなりません。歴史は裏目に出た負の部分を除外しては成り立たないでしょう。表と裏を総合的に深くとらえてはじめて充実した歴史のすがたがかたちづくられるはずです。明治維新も、正の西南雄藩だけを見て負の東北諸藩を考慮しなければ、いびつな歴史しかつかまえられず、薩摩藩のかげにかくれた琉球弧の島々(中山王国や道之島)の存在に思いをとどかさなければ、あのような薩摩藩のエネルギーを理解できるわけがありません。‥‥
 琉球弧は、世界の方に向いて開かれた日本の一つの窓、もしくは道筋であったと思います。その要路を扼していたのが、薩摩藩であったし鹿児島県であります。
 百年を区切って、郷土の再検討をするにあたって、ややもするといっそう地方に密着しようとする目の位置を、ずっと高いところに押し上げて、百年のあとさきをも見通せる、つまり琉球弧をなす南島全般をも明確に視野に入れた場所から、正確にとらえてみたいものだと私は思っています。」
 これは昭和42年「南日本新聞」に掲載された記事の一部である。琉球弧とは、奄美、沖縄、宮古八重山を含む島々、島尾はヤポネシアという言葉を使って、太平洋中の島嶼群としての日本の性格について意見を発信した。
 「日本歴史の中でなぜ奄美、沖縄、先島を欠落させてきたのか。研究をなおざりにしてきたのか。日本の歴史研究家の目の位置は低すぎるのではないか。たとえば、日本民族の中に二つの政府があった時代を(本土には京都や江戸に、そして琉球には首里に)、どうして総体的にもしくは地球世界的にとらえようとはしないのか。いつも奄美や沖縄や先島を黒潮のかなたにかすませておくのか。またたとえば、明治一新後百年の歴史を、どうして西南雄藩の立場を表立たせてしか見ようとしないのか。ネガの部分として東北諸藩のその百年が、、日本の歴史と無関係なはずがないではないか。中央政権に遠い場所で生活せざるを得なかった地方のあることをしっかり視野に据え置かなければ、ひ弱な回顧に終わってしまう。独立政権を持っていた琉球や、まつろわぬ蝦夷地の東北が、日本歴史の展開にどれほども役立たなかった異域だなどと考えることができることではない。」

 市民自治による政治の確立を目指した政治学者で法政大名誉教授の松下圭一が5月6日死去した。今安倍政権は「国民を守る国家」をつくるのだと安保法制を急いでいる。しかし歴史は、国民を守ると称して多くの国家権力者が国民に犠牲を強いてきた。国、国民を守るためにと称して、戦争を引き起こし、また侵略してきた。だから野党はこの法案を「戦争法案」と呼んでいる。
 松下圭一は説いた。憲法前文に「国政は、国民の厳粛な信託によるもの」とあるのは、すべてを官僚にゆだねるのではなく、市民による自治に基づくものなのだ。国家の擬制から脱却し、市民自治によって安全保障を勝ち取ることだと。
 沖縄の翁長雄志知事が27日から訪米し、米軍普天間飛行場(同県宜野湾市)を同県名護市辺野古に移設する計画への反対を訴える。1872年の琉球処分以後、沖縄の上に覆いかぶさってきた国家体制、日米戦争では本土決戦の防波堤にした。そして戦後は基地の島として犠牲を強いてきた。国はいまも沖縄県民の心に寄り添うことをせず、犠牲を強いつづける。ならば、沖縄県民独自に、住民自治、自己決定の旗を掲げて自己の闘いをするしかない。
 沖縄県民の意志を携えて、翁長さん、143年におよぶ沖縄の心をひるむことなく伝えられんことを願う。