戦争を知らなかった大琉球 <沖縄の昔、そして現代> 2

 「持てるものは文明の代償として苦しみと悲しみを味わい、琉球の“自然に抱かれた子どもたち”は、貧しくとも喜びと幸せを与えられているのではないか。」
 では琉球の子どもたちはどんなに子どもらしかったか、探検したアメリカ人のウイリアム・スパイデンが、1854年、こんなことを書いていた。

 「友人のアーサーと一緒に竹の村に入った。しばらくして振り返ると、後ろにはちっちゃな子どもたちがぞろぞろついてきていた。名案が浮かんだ。大琉球の子どもたちと一緒に、『汽車ぽっぽごっこ』をやろうじゃないか。そこで子どもたちに近づいた。15歳ごろの少年の手をとり、道路の真ん中に立たせた。少年はわけがわからず、とまどっていたが、身ぶり手ぶりで説明すると、どうやら納得したらしく、そのままじっとしていた。同じように少年たちを一人ひとり連れてきて、列を組ませた。私は10人ぐらいの汽車ぽっぽの先頭に立ち、『出発!』と号令をかけ、『ブーム ブーム ラブメリー』と歌いながら行進を始めた。すぐに後ろの少年たちも合唱した。汽車ぽっぽは何度も道路を往復した。少年たちは大はしゃぎだ。そうこうするうちに、周囲には100人以上の男、女、子どもたちが集まってきた。少年たちの汽車ぽっぽが終わると、今度は5歳から10歳ほどのちっちゃな男の子たちを20人ほど集めて、汽車ぽっぽをつくった。みんな喜んで列に入るのに、一人だけ尻込みする子がいた。どう説得してもだめだ。よく見るとなんと女の子だ。参った参った。見物人はどっと笑い転げた。ふりかえると、アーサー君を先頭に、みんな元気いっぱい汽車ぽっぽを始めている。私もあわてて汽車ぽっぽに乗っけてもらった。」

 蒸気機関車1802年にイギリスで発明され、アメリカでは1850年頃までにはミシシッピ川以東に鉄道網がほぼできあがっていたというから、「汽車ぽっぽ」が当時アメリカの子どもたちの遊びになっていたのだろう。スパイデンもアーサーも、無心に子どもと遊ぶことのできる人であったから、琉球の子どもたちと即座に遊ぶことができたのだ。
 琉球の自然、風土の美しさは次のように描かれている。
 「緑したたる街並み、見晴らしの良い丘、こんもり繁る木立、どれをとりあげても、首里の都は世界一美しい。士官たちは首里に登ると、いつも無上の喜びにひたる。手入れの行き届いた泉で、のどの渇きをいやし、雲つく大樹の陰でピクニック気分。その気になれば昼寝だって楽しめる。昼のうたた寝が終わると、うっそうたる樹木に囲まれた泉で水浴びを楽しむ。ここがアメリカなら、いったいどれだけの価値があるやら見当もつかぬ。あの伝統の国イギリスでさえ、こんな古色蒼然たる自然の楽園は持ち合わせていないのだ。」(1853年 スポールディング)
 「私はこの島が現わしているような美しくやさしい景色をいまだかつて見たことはないと思う。風光の形状のすばらしい調和、目もくらむようなあざやかな樹木の緑、その海辺から吹き寄せてくるおいしくて心地よい空気、これらは中国の単調きわまる地平と汚れた環境を見てきた私たちを、あたかもパラダイスを垣間見るように、魅了した。
 琉球の人夫は、12歳から16歳までの少年だった。かんかん照りのなかを重い荷物を肩に、でこぼこ道を進んでも、この少年たちは少しも汗をかかず、一滴の水も飲まない。ほんとに不思議だ。元気よく、忍耐強い。いつも笑顔を絶やさず、さっさと行動に移る。しかめっつらを見せることもなく、不平もこぼさない。世界のどこにもこんな少年たちはいやしない。
 山やまのてっぺんには、えも言われぬほどの美しい琉球松が生い茂り森となり、成り金の材木商がどんな値をつけようが、芸術家のつける価値には及びもつかないのだ。」(1853年 ベイヤード・テイラー)
 「八重山と太平山の人びとは、ほんとに心やさしい人びとだ。われわれの所持品を運ぶ役目の人夫でさえ、その品行方正ぶりはきわだっている。文明世界から孤立したこの島国で、人間の誠実さに出会うと、心に安らぎを覚えずにはいられない。そこから温かな交流が生まれるのだ。‥‥彼らの仲の良さはうらやましいかぎりだ。めったにけんかもせず、怒った顔も見せず、武器の使用は一切知らない、ということだ。」(1845年 エドワード・ベルチャー)

 琉球人の親切で正直、素朴な人情を来島した欧米人は称賛したが、照屋善彦は中国におけるアヘン戦争(1840~1842年)以降それが変化したと記している。
アヘン戦争でアジアの超大国清帝国をやぶった英国が、その後アジア人に対して優越感を抱き、蔑視するようになると、他の西洋諸国民もこれに同調してアジア人を見下げるようになった。1842年以降の欧米人の琉球観は酷評したものが増える。日本に開国を迫ったペリーもまた同様であった。」
 そういうこともあったであろう。が、欧米人の眼に映った琉球にも、支配・被支配の関係のなかでの抑圧があった。とりわけ女性の地位が低くおとしめられていたようである。
 照屋善彦は、「青い目が見た『大琉球』」(ニライ社)の最後に、
 「永遠の楽園・琉球は、明治以降の近代化=西洋化、沖縄戦、戦後の復興や自然開発によって、その美しい自然と社会が徹底的に破壊され、大きな変貌を強いられた。しかし、琉球の昔からの自然と人間の本質的なものは、今も失われていないと思われる。われわれは欧米人の興味深く観察した前近代の琉球の自然と社会のリアルな姿から、歴史研究の新しい資料を得るだけでなく、沖縄の将来の自然と文化の展望に役立つヒントをもいろいろくみ取ることができるのではなかろうか。」
と述べている。