上高地開山祭


 上高地の開山祭に行ってきた。ピーカーン最高の晴れ、気温も上がった。安曇野から梓の谷に入り、沢渡に約1時間で着いた。バスターミナルに車を置いて、バス乗り場に行くと上高地行きの8時台のバスは出た後だった。料金を調べると、タクシーに4人乗ればバス代より安い。我ら夫婦と一緒に誰か相乗りする人はいないかと見まわしているところへ、50代ぐらいのご夫婦が切符売り場にやってきた。声をかけると、すぐさま共鳴、安くなるし一緒に行きましょうということになり、客待ちのタクシー運転手に言うと大歓迎。ご夫婦は山梨を朝4時に発って来たと言う。運転手は上高地までしゃべりっぱなしだった。
「雪が上から落ちてきましてねえ、危ないところ助かりましたよ」
 梓川の対岸に見える露天風呂温泉のこと、新しいトンネルの話、焼岳、大正池上高地のサルとクマなど、おもしろおかしく語って聞かせる。4人の乗客はげらげら笑いどおしだった。
上高地のサルは人間から食べ物もらったことがないし、危害を受けたこともないから、人間がいても興味も関心も持たないですよ。知らん顔ですよ」
 実際にそのサルの話は後で証明されることとなった。

 上高地に入ると風景は大転換した。樹林のなかには雪が残っている。碧空にそびえる穂高連峰が圧倒的な迫力で展開する。河童橋の上や周辺には人があふれていた。開山祭の行なわれる場所は橋のたもとの狭い道端で、そこに紅白の幕がはられ、酒樽やらなんじゃらかんじゃら置かれている。中国語があちこちから聞こえる。中国、台湾からの観光客の多さに驚く。
 祭り会場のまわりに、10時半ごろから人垣ができ始め、11時、6人の奏者によるアルプホルンの演奏が始まった。アコーデオンがスイス民謡を奏でる。祭典の狭い空間に三重四重の人垣で、その後ろから背伸びしても何も見えない。写真を撮る人は、カメラを手で頭上に伸ばして写している。どうしてこんな狭い場所で、それも通路で開山祭をやるのか、小梨平にステージを設ければいいのにと思う。もともと地元の人たちによる山の安全祈願の神事であるにしても、観光客にとっては観たい聴きたいイベントだ。さすれば、その工夫をして当然だと思うのだが。

 梓川の澄み切った雪解け水は、浦松佐美太郎がつづった「たった一人の山」の描写のまま今も変わらない。
 見えない祭りはあきらめて、田代池まで散策をした。樹林の中は一部残雪の上を歩いた。ウグイスが鳴いている。カラマツの芽がふくらんで、梢はぼかした薄いベージュ色、芽吹きは5月に入ってからだ。ケショウヤナギも。
 梓川の右岸を行くとサルの群れに出会った。これがタクシーのドライバーの言う上高地のサルだった。子猿を連れた母親もいる。彼らは湿地のなかに入って緑の鮮やかな草を食べていた。なるほど、サルたち、まったく人間に無関心だ。顔を合わせもしない、カメラを向けられても知らん顔。ゆうゆうと真横を通り過ぎていく。50センチほど後から私は私の道を行くのですよと歩いてくる。人が近づいても背中を向けて座って食べているのがいる。背後に人間が立っているのに反応しない。いやはや、人間は彼らにとって単なる風景のようなものだ。警戒もしない、何かをもらおうともしない、好奇心も示さない。

 針葉樹の森に入ると、フィトンチッドが濃厚だった。心身の蘇生をもたらす山の空気だ。湿地帯にカモがいる。
 2時、上高地を去る。帰りも相乗りしてタクシーに乗った。ぼくら夫婦はバスのチケット売り場に立って、下山する人に声をかけていたら、単独の男性と、二人連れの男性とがぼくらに意気投合した。
 タクシーに5人乗る。助手席にのった二人、後座席にぼくら夫婦と単独の人、この一時の同乗空間が、漫談空間になった。
「どこから来られたのですか」
単独行に聞いた。
「中津川からですよ。」
それを聞いた前の二人、
「中津川? わしゃ多治見ですだ。」
「わたし、春日井」
「へえー、近くですなあ」
「中津川のお人、おいくつで」
「87歳」
「へえーっ、私ら80歳で」
「87歳だから、もうこれが最後になるかもしれんと、それで開山祭に来たでね」
「あんりゃあ、まあ、元気だねえ。私ら同級生でね。ずーっと山、歩いているで」
「悪友だね」
「昔、若いころは悪友じゃなかったね、年取って悪友になったね。私がついていかんと、この悪友何するかわからんでね」
「中津川の人、よくまあ一人で来て、たいしたもんだねえ」
「この前来たのは何年前だったかな」
 運転手の横にくっつくように座った男は、げらげら笑い上戸を破裂させている。運転手が聞く。
「いいご機嫌で、お神酒どれぐらい飲んできました?」
「升酒で5はいだー」
 開山祭のチケットを買えば、お神酒や焼きそばやいろんな店で食べ物がもらえる。お神酒を5杯も飲んできたと聞いて運転手あきれ笑いして、
上高地でよっぱらいを乗せたのは初めてだあ―」
どどっとみんな大笑い。
 沢渡到着は速かった。春日井のよっぱらい男性、
「来年、また来ましょう。また開山祭で会いましょう」
「お元気で、お元気で」
握手、握手、ごっつい硬い手のひらだ。この人、何か職人さんだな。あの地方、焼き物が多い。陶器の職人さんかもしれん。