知らなかった日本国憲法の成立過程

写真:薪と井戸ポンプのある家で

 新聞を読んでいて、しばしば新しい発見をもたらす文章に出会う。ぼくの認識不足の頭脳が刺激され、活力が湧く瞬間だ。
 4月になって「新聞と9条」(「朝日」)という連載コラムが始まっている。今日が15回目だ。この「新聞と9条」と夏目漱石の小説「それから」の連載とは切り抜いて残している。

 こんな一文があった。
 1945年9月3日、日本が降伏文書に調印した日の翌日の、毎日新聞の社説の一節。
「 敗戦日本を世界最高の理想国家として再建するために、国民の全力を余すところなく傾注しなければならない。国体を護持し、正義と平和とを基盤として、新日本の平和建設に邁進しなければならない」
 9月7日の同じく毎日新聞社説。
 「強国と大国とは別のものである。日本の今後の建設の仕方によっては、武力なき大国を、人類の歴史の上に、初めて造って見せることができるのではあるまいか。これができれば人類の偉観である。日本はこの目標に向かって前進を起こそう」
  9月5日の朝日新聞社説はこう提言している。
 「すべてで敗れた日本は、また再び戦争を考えるほど愚かなものではない。精神に生きよう。文化に生きよう。学問に、宗教に、道義に生きよう。大戦の惨禍を未来永劫、世界より絶滅するための一助言者として生き抜こう」
 これらの社説、戦争が終わってまだ半月余りである。惨憺たる日本に希望を秘めた言論が開花し始めたのだ。
 終戦から半年、1946年2月、新憲法草案の検討が始まっていた。幣原喜重郎首相がつねに語っていたという言葉が明らかにされている。
自衛戦争の名において、いかに多くの侵略戦争がなされたことか。どこの国が、自国は侵略戦争をするというであろうか」
 幣原は1931年、満州事変が始まったとき、外相を務めていた。日本軍は中国東北部へ、鉄道を爆破して侵略を開始する。幣原は軍部の独走を許したことを「返す返すも遺憾千万であった」と語っていた。
 記事の中に、水雷艇艇長として日露戦争を戦った軍人・水野広徳のことが載っている。彼は1919年、第一次世界大戦終結後のヨーロッパを旅し、破壊の惨状、市民の悲嘆を目の当たりにした。水野の平和主義はそれから生まれた。

 「人類は今に於いて平和に目覚めざれば、更に恐るべき戦禍に苦しまねばならぬであろう。我が国は列国に率先して軍備の撤廃を世界に向かって提唱すべきである」

 しかし日本は、水野の「アメリカと戦えば、日本は敗れる。日本が三年五年の持久戦に耐え得るや否やの問題である」という朝日新聞での提言を無視し、12年後に日米開戦に至ってしまう。

 最近出版された、池上彰の著作「超訳 日本国憲法」(新潮新書)に、こんな事実が紹介されていた。これも以外な事実だった。
 新憲法は、明治憲法大日本帝国憲法)の改正として定められたという事実である。大日本帝国憲法の第七章補則には憲法改正手続きが定められている。池上の超訳によれば、
 「将来憲法を改正する必要があるときは勅命によって議案を帝国議会にかけなければならない。その場合、両議院(衆議院貴族院)は、それぞれ全体の三分の二以上の議員が出席しなければ議事は行えない。その上で、出席議員の三分の二以上の賛成がなければ改正を議決できない。」
 この規定にもとづいて憲法改正案は、1946年6月20日に第九十回帝国議会に提出された。帝国議会では、6月25日から8月24日まで衆議院で審議され、8月26日から10月6日まで貴族院で審議し、可決された。貴族院で一部修正・追加があったので、衆議院に再び回され、10月7日、再度衆議院で可決された。
 当時は、帝国議会のほかに枢密院があった。ここは天皇の諮問にもとづき、重要な国務を審議した。枢密院は、帝国議会の前に審議を始め、6月8日に可決している。貴族院での一部修正・追加が衆議院で可決されると、枢密院が再度審議し、10月29日承認した。
 日本国憲法成立にはこういう過程があった。このことを紹介した池上はこう主張している。
日本国憲法は、アメリカが草案を作ったものであり、『押しつけ憲法』という批判もあるが、手続きとしては、まったく新しい憲法ではなく、大日本帝国憲法を改正したものなのだ。」

 そして「新聞と9条」に、こんな一文があった。
 元読売新聞論説委員、村尾清一の述懐。村尾は1951年11月に始まった連載「逆コース」を執筆していた。現在村尾は92歳である。
 今の日本国憲法をめぐる安倍政権の動きに対して、
「特定秘密法案の制定や、集団的自衛権の行使容認の動きなどを見ると、日本は『戦後』ではなく、『戦前』にあるのではないでしょうか。再び『逆コース』を歩み出しているように思われてなりません」