市議会の混沌


 安曇野市の議会を傍聴して「こりゃ、なんじゃ」と感じていたことは、どうも日本全国の自治体にかなり共通していることであるらしい。地方議会は「学芸会」と「八百長」だと言われるそうだ。片山善博(慶応大学教授)が書いている。(岩波書店「世界4月号」・「片山善博の『日本を診る』)
 <地方議会は「学芸会」と「八百長」だと言われる。これは筆者が鳥取県知事時代に指摘したことである。「学芸会」とは、議員と首長との間の質疑が台本どおりに進められる様子をいう。あらかじめ準備された質問書と答弁書を互いに読み合うのである。
 「八百長」とは、議会で審議する前に既に結論が決められていて、それでいながらさも真剣に議論している風を装う様子をいう。本来、異論や反論、多様な意見が公開の場で交わされ、それらの間の説得と譲歩を通じて合意が形成される。それが議会の本質であるのに、最初から結論が決まっているのであれば時間のムダでしかない。>
 なるほど、「学芸会」と「八百長」か。うまいこと言ったものだ。しかし「時間のムダ」以上に、政治の腐敗は自治体の将来に大きな損害をもたらす。
 ぼくの観た安曇野市議会の状況もこれとほぼ同じだった。議員数の多い大会派は市長の与党のような存在になっているように思える。市長・行政への質問がパフォーマンス的なもので、見るからに市長・行政への応援団的なものを漂わせているものもある。自民党議員が安倍内閣に質問するときに感じるアレである。片山はこうも暴露する。
<公の場で甲論乙駁、大いに議論してから結論を出すべきであって、議員と執行部との密室のやりとりで隠微に決めるべきではない。にもかかわらず、そのやりとりを(マスコミは)批判することなく、肯定的に記事にする、あるいは(あらかじめ密室で執行部から引き出してあった内容を議員は隠しておいて議会で質問すると)その議員の「手柄話」のような記事に仕立てるのだとしたら、それはもはや「学芸会」や「談合」の片棒を担いでいるとしか思えない。>
 立役者的な議員は、執行部を支えるボス的な体質をもっていることが多い。

 この3月、ぼくは市議会と議員の全員協議会を傍聴した。全員協議会は政務活動費の不正な使い方がテーマだった。
 傍聴している市民はものが言えない。ただただ黙って歯ぎしりするしかなかった。驚愕し失望し、慨嘆する傍聴だった。
 問題の「視察研修旅行」から1年以上も経過しているにもかかわらず議会において、真摯で謙虚な討議はなされてこなかった。市民からその旅行の疑惑について出された公開質問状を議会は無視した。やむをえず市民は住民監査請求を行ない、それを受けて行なわれた監査の結果報告が出されても議会は問題究明に動かず、当該会派も議員も何の反省もなかった。結局、監査委員会から指摘された金額の一部分を返金するという糊塗的な行為ですませたのだった。
 それがやっと議員たちは討議する。やっとここに至った。真実の究明と反省と謝罪、それが当然の結果であると市民は期待した。だが、全員協議会の実態は?
1、議事運営
 発言する議員の意見を、議長は途中でしばしば阻止して自己の意見を割り込ませ、不当に発言権を奪った。自分たちに不都合な異議があると、議長の職務を副議長に交代する手続きを経ないで、すぐさま私見を述べた。政務活動費を使った研修旅行の真相を明らかにしようとした議員の発言を強権的に止めるシーンもあった。公平な議事運営をすべき議長が、自己に不利益になると判断すると討議を封じ込め批判意見を抑える。
2、真相究明なされず
 「何が問題であったのか」、「どうしてこのような問題が起きたのか」という市民が最も期待した議論、「視察研修に実体はあったのか」「議員は本当にフォーラム参加を目的にしたのか」という議論が不可欠であったのだが、それは回避され、言葉の上で「反省する」「おわびする」という発言で終わった。全員協議会にさらけだされたものは、真相を究明し、問題点をただそうとする少数の良心的議員に対する抑圧と、力の構造に左右された多数議員の沈黙と弁明、とりつくろいの「自己保身」であった。
 国会も地方議会も、ああ混沌。多くの市民は、議員様にお任せ、何も知らない、知らなくてもよい。勝手にやっとくれ。
 議会改革は御題目にすぎない。