フキノトウ味噌


 朝6時前にランを連れて家を出た。運動靴でとことこ行くと、野の道を左から秀さんがゴールデンレトリバーのカイちゃんとともに現れた。ランはカイに走り寄り、鼻をくっつけてかぎあう。ランのボーイフレンドだ。秀さんと会うのは久しぶりだった。
「矢口のじいちゃん、どんな状態ですかね」
 秀さんの家と矢口さんの家は位置的には近所だが、その間を目に見えない旧町村の境界線が走っていて、その分断によって昔から居住区としてのつながりがなかった。
「亡くなられましたよ」
「えーっ、いつですか?」
「いつだったかな、去年の秋だったかな」
「えーっ、亡くなられましたか、知らなかったなあ。息子さんは、ときどき長靴はいて散歩しておられたけれど」
 おじいちゃんは94歳だったと思う。おじいちゃんの息子さんも還暦を過ぎておられ、近辺の野の道をたまに歩いて運動をしておられた。先日も我が家の横を通り過ぎ、そのとき庭に出ていたぼくに声をかけていかれた。
「暖かくなってきましたね」
「やっと暖かくなりましたね。歩くと汗をかくでしょう」
「暑いくらいだね」
 その程度のあいさつで、足を止めずに行ってしまわれた。息子さんは、じいちゃんが亡くなった話はなにもされなかった。だからじいちゃんはまだ御存命だろうとぼくは思った。
 三年ほど前までは、おじいちゃんはよく散歩しておられた。途中くたびれると畔に腰をおろして一休み。道で出会うとよく話を交わした。その姿が消えたのは二年ほど前だった。どうしたのだろう。おじいちゃんの姿が見えなくなったのは何故? 散歩しておられた息子さんに聞いてみた。
「おじいちゃん、元気ですか」
 返事は、肺炎になって病院に入っているということだった。それから会うたびに聞くと、家に帰ってきたから介護している、病院行ったり来たりしている、とその時々の状況を話された。おじいちゃん、早く元気になって散歩に出ておいでよ、と祈っていたが回復の様子もなく、それから息子さんの散歩姿もぱたっと絶えてしまった。息子さんが散歩に出てこないのは、おじいちゃんの様態が芳しくないからかもしれない、ぼくはそう想像した。そうして一年ほど過ぎたころ、久しぶりに息子さんのウォーキング姿を見た。しかしおじいちゃんの姿は相変わらず見えない。息子さんにおじいちゃんのことを聞こうか、と思う。けれども、なんとなくよくない報せを聞くかもしれないという思いがわいて、息子さんに出会っても、おじいちゃんのことは訊かないで、軽くあいさつを交わすだけだった。
 それでも気にはなる。ひょっとしたらじいちゃんは亡くなっているのじゃないかと思いもする。だが、おじいちゃんの家の前を通過しても、葬儀があったというような様子もなかった。
 春の暖気が野を包むようになった。おじいちゃんが快方に向かっておられるなら、外へ出てきたいだろうな。でも、これだけの長い日数を経ても家から出てこられないということは、寝たきりになっているのだろうか。
 先日我が家の横であいさつを交わした息子さんが梅の木の向こうに立ち去っていく後姿を見たとき、今度会えば、はっきり、「おじいちゃん、どうですか」と聞いてみようと決めた。
 そんなこんながあって、この朝、おじいちゃんは既に亡くなられているという秀さんの返事に、ぼくは、「ああやっぱり」と思いはしたが、心がどかんと尻もちをついた感じがした。
「おばあちゃんは、まだ寝たきりのようですよ。おじいちゃんよりも前から、おばあちゃんは寝たきりでねえ。ときどき、デイサービスのお世話になって」
「おじいちゃんの方が先に逝ってしまったんですねえ」
 とうとうおじいちゃんから「詳しい話」を聴くことができなくなった。おじいちゃんが元気だった時、散歩中に道で出会って親しくなると、おじいちゃんは戦時中の話をした。道端の石に腰かけて、70年前の記憶をたどってくれた。「詳しい話」というのはそのことだ。
「神奈川で、特殊潜航艇をつくっていたんだ。電気の会社の工場で、装置をつくっていたんだ。人間魚雷だよ。一人が乗り込んで、敵の軍艦に体当たりするんだ。特殊潜航艇をつくっていたことは機密だったからね。家族にも言ってはならんということでね。戦後家族に話したけれど、だれも信用せんかった」
 終戦間際、家族が危篤という電報を受け取ったおじいちゃんは、特別許可を受け、夜行列車で穂高まで帰ってきた。その間に工場は爆撃を受け、同僚たちは全員死んでしまった。おじいちゃんは命拾いをした。
 この話をもっと聞きたいから家へ伺います、と言っておきながら、ぼくはついにそれをやらないで終わってしまった。
 「秀さん、新聞に訃報欄がありますねえ」
 おじいちゃんの訃報が地域新聞に載っただろうか。
「市民タイムズに訃報欄ありますよ。いろんな人のが載っていますよ」
 けれど、どうもおじいちゃんの訃報は載らなかったようだ。
「最近は家族葬が多くなって、葬儀も家族だけで行ない、訃報欄に載せない人が多くなりましたね」
「そうですねえ。家族の訃報をみんなに知ってほしいと思う人と、そう思うわない人とがいますからねえ」

 秀さんと別れて、ぼくはおじいちゃんのことを思いつつ、山手の方へ上がっていった。廃屋になっている大屋敷の南側の小さな谷でフキノトウを取った。今日はフキノトウ味噌をつくろう、決めた。
 信州味噌を750グラム2パック、そして砂糖を店で買ってきて準備をする。作りたい量からすればフキノトウが足りないことが分かって、午後、足りない分を取りに烏川渓谷の下までランを車に乗せて行った。フキノトウを取っていると、近くで植木屋が剪定の仕事をしていた。近寄っていくと、植木屋はランに目を止め驚いて剪定をストップした。
「いやあ、おどろいた。いい犬だね」
 植木屋が言うには、犬を5匹飼っていた、熊をとる猟犬だった、犬はかわいいが15年ぐらいで死ぬのがつらかった、それは若いころのことで。
「おいくつですか」
 年を聞くと、来年90歳だと言う。大正時代の終わりに生まれた。軍隊に入り、外地へは行かなかったが内地を点々とした。鹿児島の特攻基地にもいた。外地に行く前に戦争が終わった。19歳だった。きょうだいは6人だったが、そのうち2人が戦死した。自分の村では子ども2人の家族なのに、その2人が出征して戦死してしまった家や、4人の子どもがいた家で、2人が出征して戦死した家もある。思いがけない話だった。年齢89歳、植木屋の現職、がっしりした体格にしゃきっとした動き、とても89歳に見えなかった。
 摘んだフキノトウを持ち帰って、味噌をつくった。ガラス瓶に9個できた。