ルビコン川を渡る


 日の出は6時ごろになった。冬の底だったころから1時間は早い。夜明けと目覚めは連動している。晴れの朝は日の出前の空が明るいから、自然に目覚めも早くなる。起きようか、もう少し寝ていようか。5時40分、起きて朝のウォーキングに行こう、という気が起こって起きる。
 出発は5時50分だった。これからだんだん出発が早くなっていく。5時ごろに日が昇るようになれば、目覚めもそのころになり、真夏のウォーキング出発は4時台になる。
 春分の日も過ぎ、気温も氷点下を脱している。昨日は、畑のうねを起こし、堆肥を入れた。カエルが土の中から出てきた。先日は、ヒオドシチョウという赤褐色の珍しい蝶が舞ってきた。
 歩くうちに汗ばんでくる。諏訪神社の前の畔に、フキノトウが10個ほど花を開いている。フキノトウ味噌をつくるなら、昼間に取りに来よう。去年のように、今年もフキノトウ味噌を教え子たちに送ってやりたい。
 キジの声が聞こえる。アルプス公園の方へ上がっていくと、ウグイグスの初音が耳に入った。田んぼの向こうの木立辺りからだった。ウグイスに続いて、複雑なメロディを奏でる小鳥の声も聞いた。以前からなんという鳥なんだろうと思いながら、名前も姿も分からないままでいる。オーストリアのチロルの村で、輝くような6月の空に響かせていたさえずりは、信州で聴くこの名前も姿もわからない小鳥のさえずりに似ていたが、声の大きさはチロルの小鳥の方がはるかに大きかった。
 チロルのアルプバッハの村でまたその小鳥が教会の屋根に止まって高らかに鳴いていたから、ぼくらと一緒にバスを待っていた御夫婦に「あの鳥は何と言う名前?」と問うと、カラヤンによく似た顔つきの男は、「アムジイだよ」と教えてくれた。アムジイ? ははあ、と早速ドイツ語辞典をザックのポケットから取り出して、スペリングを想像しながら調べてみると「あったー」、クロウタドリと訳してある。クロウタドリと言うのかあ。それからウイーンの公園の芝生の上でさえずっているのを見た。人を恐れず、3メートルほど前までちょんちょん歩いて来て、大好きな歌を歌っている。なるほど羽は黒く、くちばしが黄色だった。日本に帰ってユーチューブを開いてみると、クロウタドリの歌う動画が出ていた。ツグミの仲間のようだ。ビートルズがこの小鳥のことを歌っているというのだが、その曲はまだ聴いたことがない。
 アルプス公園から山口邸の方を回ってくると、二軒の家で馬酔木(アセビ)の花が白く咲いていた。あれえ、こんなところに馬酔木がある。ちょっと驚きだった。つい最近まで近くの里山には雪が残っていた。馬酔木は寒さに強いんだなあ。ここでこんなに満開なら、なつかしい奈良公園春日大社から新薬師寺にぬけて行くところ、馬酔木の森はもう満開を通り越しているだろうか。
 午前7時の鐘の音が聞こえた。道を下ってくると、右にベトナム人技能実習生が暮らしている寮がある。普通の民家が彼らの住居になっている。日曜日も彼らは仕事だから、もう起きているかなと家の二階の窓を見上げたが、それらしい気配はなかった。寄ってみようかと一瞬思ったが、それはやめた。その気にならなかった。瞬間、ふっと頭に湧いた思いがあった。
 「その気になる」というこの言葉、今西錦司が、人間が二本足で歩くようになったのはなぜ?の問いに対して、「その気になったからというしかない」と答えた。それからぼくの頭の中にこの言葉はしっかりと定着した。
 「どうしてこの道を歩いているの?」
 「その気になったから」
 今ここにいるのも「その気になったから」、人生も無数の分岐点で「その気になることがあり」、ここにいる。もし無数の分岐点で「その気にならなかったら」、今頃どこにいるだろう。
 18歳の川崎の少年に聞きたい。
 「どうしてあの子を殺したのか?」
 「その気になったから」
 でもその殺害行為の途中で、だれか自分を止めてほしいと思っていたという。
 日本のかつての戦争指導者に聞きたい。
 「どうして戦争をしたのか?」
 「その気になったから」
 さてさて、こっから先が重大なんだ。
 なにごとも、「その気にならなかった」人もいれば、「その気になった」人もいる。それでその人の人生も変わる。国の指導者はどうしてその気になったの? その気になるにはその気になるわけがある。その気になったことが国を滅ぼすことになった。
 紀元前 49 年、古代ローマにおいて、軍を率いてルビコン川を渡り、ローマに入ることは法により禁じられ、禁を破れば共和国に対する反逆とみなされた。しかし、カエサル(シーザー)は、「賽は投げられた」と叫んでルビコン川を軍を率いて渡った。そしてカエサルによる歴史ができた。
 重大な決心をして行動することを「ルビコン川を渡る」という。
 安倍政権、自公与党は憲法解釈を変えて、「ルビコン川を渡った」。これからどういう日本になっていくか。
 家に帰りついたのは午前7時20分だった。