「八紘一宇」という言葉

 自民党参院議員の三原じゅん子氏が国会の参院予算委員会で、「日本が建国以来、大切にしてきた価値観、八紘一宇(はっこういちう)」と発言したという。
 「八紘一宇とは、世界が一家族のようにむつみ合うことで、グローバル経済の中で日本がどう振る舞うべきかは八紘一宇という根本原理の中に示されている」と。
 やっぱり出たかと思う。国会での演説でそういう言葉が出るということは、その言葉が彼女のなかに意味を持って生きているからである。だから生き生きと、この言葉に憧れの思いを込めて、とうとうと述べた。その言葉が出るにはそうなる筋道があってのこと、安倍政権体制にどっぷりつかっている人たちの歴史認識では当然のことだ。だが、あの時代を生きたものであれば、あの戦争をつぶさに知っているものであるなら、かつての戦争遂行のスローガンであったこの言葉を公然と国民に向けて口にすることなどできるものではない。
 「八紘一宇」は、大東亜共栄圏建設の理念として、日本が盟主となってアジアを支配する意味を込めて使われた。
 1940年(昭和15)、第2次近衛文麿内閣は「基本国策要綱」を決定し、「八紘を一宇とする肇国の大精神」にもとづき「日満支の強固なる結合を根幹とする大東亜の新秩序を建設する」として、大陸への進出の大義名分にした。軍国主義教育の中で子どもたちも「八紘一宇」をとなえて、戦争を支持し戦争を鼓舞した。
 そんな侵略のスローガンを国会議員が公然と使う。三原じゅん子氏は50歳、たぶん三原氏の歴史認識にはあの悲惨な戦争について重大な欠落があるのだと思う。教育の欠落もある。その欠落とは、その言葉が使われた時代、何があったかという単なる事柄のことではない。侵略するものと侵略されるもの、殺すものと殺されるもの、奪うものと奪われるもの、犯すものと犯されるものの、そこに展開された地獄の認識だ。それを想像したことがあるか。つぶされていく精神、破壊される魂。脳髄が噴き出し、内臓が飛び散り、年寄り赤ん坊が銃剣に刺され、銃弾に射抜かれ、大地も海も血に染まった、恐怖、苦悶、悲哀、絶望‥‥、それらを想像することがあったか。もしあったなら、「八紘一宇」という言葉に染み付いた戦争賛美の匂いは感じられたはずだ。そして歴史認識はもっと厳格なものになったはずだ。
 「大東亜共栄圏」という言葉は「八紘一宇」の対になる言葉だ。いまは92歳になる老哲学者鶴見俊輔(1922年・大正11年生)が書いている。(2001年 京都新聞
 <「大東亜共栄圏」を政府が使いだしたのは、十五年戦争のなかばをすぎてからだが、考え方そのものは、1905年からであり、今日までに百年つづいている。敗戦と占領をとおしても、消えることがなく、敗戦後56年たって強くここにある。「大東亜共栄圏」とは、日本国が中心になってアジア諸国を引っ張って、新しいアジアの形をつくるという考え方だ。この考え方の始まった1905年は日露戦争の終わりで、このときに、賠償金の取り分が少ない、もっと戦争をつづけろという国民の抗議が起こった。それからあとは、日本は世界列強の一国となった。そして台湾と朝鮮を植民地の位置においたまま「大東亜共栄圏」の構想をたて現実離れした合言葉で動いた。1905年にもっと戦争をつづけていたら日本はロシアに負けただろう。‥‥その成功があまり大きかったので、百年たってもこの国はその成功のわだちから抜け出すことができない。>(「小さな理想」2010 編集グループSURE発行)