<今や、現代の教育は、人材養成はできるが、本来的に人間をつくることはできない。
だが、それでも人間は人間をつくる。
人間のつくり出す社会のもろもろは、意図せずに人間をつくる。
現代の若者や子どもが、人間を継ぐことを拒絶し、巨大な断絶を生み出したとすれば、それもまた人間がつくった結果にほかならない。この断絶の谷間はまことに深く、ある意味では人間の歴史の危機を象徴する。
この断絶を埋めるべき「新しい自然な」人間的「教育」の力は、まず、教育は人間をつくれないという認識から生まれる。
教育は人間をつくれない。だが、人間は人間がつくる。
人間の基本的なあり方は、社会的につくられたシステムの中で暮らす家畜に類似しているし、子どもはさらに、管理・保護と、人工化がより進んだ現代的なペットに似ている。
人間のこうしたあり方は、すべて人間自身がつくったシステムやモノ、また、人間が生み出した条件や関係の中で、管理保護されているので、子どもの「自己家畜化」であり、現代の子どもはさらに進んで、「自己ペット化」と言えるような状態にある。>
このような論を出したのは1989年、動物学、人間学の研究者、小原秀雄だった。
さてそれから30年、現代社会はどのようになり、子どもの教育と子どもの暮らし、取り巻く環境はどういう質や状態で、現代の子どもはどんな思いを持っているか、どんな意見を抱いているか。混沌はさらに深まっているか。
コロナウイルスで生活が変化している。
学校が再開したとして、その学校とはどんな世界で、どんな環境なのか。
授業時数に意識が行くが、時数を取り戻すことばかり考えていけば、問題はますます形骸化し、根本的な教育の在り方の論に行かなくなる。ある意味、このコロナによる破壊と影響から、新たな根本的な発想が生まれてくるべきなのだ。