モーレンカンプふゆこの俳句、宇多喜代子の俳句

 朝日俳壇・歌壇のページ、今朝なんとなく目を落としていると、ぎっしり並んだ俳句のひとつに眼が止まった。金子兜太の選んだ一句だ。

     山河恋うて国を恐るる余寒かな

 作者はオランダのモーレンカンプふゆこ。これまで何回か名前を目にした人だった。その同じ句を大串章も一席に選んでいる。金子兜太は、その短評でこう書いている。
 <ふゆこ氏。今のとき海外に暮らす情熱の人の、この思いは更に深いのだ。>
 大串章は、
 <「世を恋うて人を恐るる余寒かな 鬼城」を踏まえる。「人」を「国」に変え、日本と世界の危機感を示す。>
とある。
 オランダに住んで、日本の山河を恋しく思うふゆこ。同時にふゆこはその日本の国を恐れるというのだ。日本はどこへ向かうのだろう。日本はふたたび危険な道に入っていくのではないか。遠くオランダから眺めれば、不穏な世界のなかにたたずむ祖国の姿が見える。立春を過ぎても襲い来る余寒(よかん)。日本を思えば寒さが身にしみる。
 海外にいる日本人は、日本にいる日本人よりも鋭く日本の姿を感じているかもしれない。
 紙面の真ん中に「うたをよむ」というコラム欄がある。高野ムツオが俳人・宇多喜代子の俳句を取り上げていた。

       いつの世の棄民か棄牛か斑雪

       今日生まれ明日死ぬ牛の呱呱の声

 福島原発事故が起こり、人々は住んでいた土地を棄てて避難しなければならなかった。だが、飼育していた牛はそのままそこに棄てられていった。しかし避難した人間もまた棄てられたのだ。故郷への帰還はもうかなわない。人間が棄てられ牛が棄てられている。いったいいつの時代だというのだ。現代の日本、今まさにそれが行われているのだ。春の斑雪(はだれゆき)があちこちに残っている。放射線で汚染された福島の地で呱呱(ここ)の声を上げて生まれた牛は、明日死ぬ牛でもある。生まれた瞬間から死を背負うのだ。
 高野ムツオはこんなことを書いている。
 <福島の放れ牛と牛飼いのドキュメンタリー「牛と土」を著した真並恭介は、土が育てた草を食べ育ち、やがて土に還る牛は「大地」そのものだと述べている。それに倣うなら、その命をいただきながら原発事故を引き起こし、牛を見殺しにした人間は、自分たちが生きる大地自体を滅ぼしたことになる。この句には、そうした回帰不能な現実を作り上げた人間への無言の糾弾がこもっている。>
 重大な気付きをもたらす言葉だ。

 朝日歌壇の方に眼を落す。一首が目にとまった。佐々木幸綱選の歌。

       冬眠を知らぬ熊増え戦争を知らぬ日本人の声が高まる

 作者は金沢市に住む前川久宣。このごろ熊も冬眠しなくなったのだろうか。昨年秋も熊が食べ物を探しに里へ下りてきて、大騒ぎになることが多かった。何頭もの熊が射殺された。殺された熊は冬眠することができなかった。人間の領域を侵すものは危険なものとして殺される。
 戦後70年、戦争を知らない日本人が戦争に備える政策を語りはじめた。
 佐々木幸綱はこう評する。
<戦後七十年を迎えるにあたっての、すでに少数派になった戦争を知る世代の人たちの懸念を読む。>
 声高に語る政治家、勇ましいその声に呼応する戦争を知らない国民。

      山河恋うて国を恐るる余寒かな    モーレンカンプふゆこ