山岳雑誌「ケルン」 <2>

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 「ケルン」最終号の巻末に載せられた別れの言葉には、言葉にならない感情、言葉にすることへのためらいが感じられる。日本は、さらに言論統制を進め、反戦、反軍の思想も行為も、「非国民」として暴力によって弾圧されていった。昭和13年は、中国への侵略が本格的な戦いになっていた頃だ。「ケルン」を惜しむ人たちの声も、うかつなことは言えないという、恐れのようなものを感じさせる。この3年後、真珠湾攻撃が行われ、日米の戦争となって一瀉千里、亡国にむかった。

 さらに数人の別れの言葉。

 

田中薫

 かつてスコットランドの荒涼たる山頂のケルンに、誰が残したのか、野菊の花の捧げてあるのを見て、故国の石地蔵に赤い彼岸花のあげてある風情を思い浮かべた。「ケルン」が年若くして最終号を刊行するに立ち至ったと聴き、私は尊き標石の前にそっと五月の野花を置いて瞑目したい。

 「ケルン」は、華やかなる時代におけるよりも、わびしかりし最近の時代において、最も高き価値を持っていたと信ずる。大衆雑誌がゴシップと案内記の坂を転落していった後に、小さくはあれど毅然として孤塁を守ってきたのが(ケルン」であった。

 時局は世の姿を変えつつある。不急なものの多くは国策に沿うものであっても失われていく。

 

坂倉敬三

 いよいよお別れかと、「ケルン」を包み覆う時代の霧を悲しまずにはいられません。しかしそれはひと時の霧でしょう。やがて霧晴れ、雲沈んで、再び青空の下、山恋う者の道しるべとして、私の前に浮かび出てくることを信じます。

 

竹内亮

 「ケルン」は積まれ始めた。しかし、それは苦闘の連続であった。来たるべきものが来たと思ったと同時に、よくも60号の「ケルン」を積み得たと、同人諸岳兄の健闘に心からの感謝を捧げる。

 

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 「ケルン」が廃刊になるまでに、すでに二つの山岳雑誌が廃刊になっていた。(ケルン」は関西系の山岳雑誌であった。大正から昭和の初期、神戸だけでも66の登山団体があったと書かれているから、85年前の日本の登山愛好には驚嘆する。

 「ケルン」創刊号(昭和8年)の巻頭の言葉は次のように詠った。

 「さあ、ケルンを積もう。君たちの協力を待って。一つずつ小石を集め積み重ねることにより、少しでも大きく、高く、頑丈に築き上げることは、山登る仲間のもっとも恵まれた心踊る瞬間である。もちろんそれは、朝な夕な、アルペングリューエンに映える巨峰の頂に建つ記念碑に比すべくもなく、きわめてささやかなものであるにせよ、心をこめて守り、愛さるべきものなのだ。‥‥

 私たちは、今ここに、一基のケルンを積む余地を見出し得たことを喜ぶ。

 さあケルンを積もう。山を機縁としてつながるお互いの「協力の美徳」の表徴として。」