山を愛する人に贈る <山岳雑誌「ケルン」創刊>

 1931年、「満州事変」勃発、日本軍の中国侵略が本格化する。政府は不拡大方針をとったが、現地日本軍が独走し、1932年に「満州国」を「建国」した。翌33年、国際連盟からの撤兵要求を拒否して日本は国際連盟を脱退する。そうして1937年、盧溝橋事件を契機に中国との全面戦争が始まった。
 1933年(昭和8年)、風雲急を告げる時代に、ひとつの山岳雑誌が日本で発行された。
 その名は「ケルン(CAIRN)」。
 創刊号は1933年6月号。
 その巻頭の詞にこうある。
 <さあケルンを積もう! 君たちの協力を待って。そして一つずつ小石を集め、積み重ねることにより、少しでも大きく、高く、頑丈に築きあげることは、山登る仲間のもっとも恵まれた心躍る瞬間である。もちろんそれは、朝な夕な、アルペングリューエンに映える巨峰の頂に建つ記念標に比すべくもなく、きわめてささやかな、そして足蹴されようものなら、もろくも基部からぶっ倒れそうな貧弱な石塚であるにもせよ、――否そうあればあるほど――より心をこめて護り、愛さるべき種類のものなのだ。
 その昔、オリンピヤードの勇者は、栄誉を表彰するトロフィーを与えられ、それを翳(えい)して誇らかに故国に凱旋する風習があった。だがベルグシュタイガーは、そうした戦勝記念物を持ち帰る代わりに、未踏のピークの一つを目指し、そして人類のもっとも貴い努力を尽くして、頂に立ったときにおいても、ただ自分たちの手で、自分たちのために、――時にそれは同じ仲間のための道標として建てることもあるが―― その位置に、ささやかなケルンを残す習慣になっている。
 私たちは、いまここに、与えられたる機会において、私たちの実生活の片隅に――心の故郷に―― 一基のケルンを積む余地を見出し得たことを喜ぶ。そしてやがて出現するであろうすばらしい記念標の基礎となるべき地ならしと、センターロックの一石を置く役割を終えたばかりだ。だが、それは、単なる事務的行事の遂行にすぎない。そしてこのケルンを積み、それを健やかに、より大きく、より高く築きあげる栄誉と重任は、かかって諸君の賛同に待たねばならない。
 さあ、ケルンを積もう! 山を機縁としてつながるお互いの「協力の美徳」の表徴として。>

 「ケルン」の編集室は大阪の堂島に置かれ、発行所は東京の朋文堂であった。
 創刊号のトップ記事は、エベレストにアタックするイギリス隊隊長の声明が翻訳されている。そして今西錦司の雪崩の研究、その他、落石、ザイル結び、夏山の野菜食、山の情報、登山記録などが掲載されている。
 「ケルン」1933年の号で、北アルプス関係のこんな情報が載っている。この時代にこの事実、想像を絶する。
 ▼白馬から御嶽の間にある北アルプスの約50の山小屋、旅館について長野県が調査したところ、設備不完全、非衛生的なものが多く、これらに改善を命じたが実現困難なものがあるので、これらの山小屋、旅館を県が買収して改善の上、適任者に経営を請け負わせる案について研究に着手した。(7月号)
 ▼水晶小屋が完成し、小屋開きをした。建坪13坪半、50名を収容しうる見込みである。(同)
 ▼北城村で建設中の白馬村営増築小屋は、7月に竣工。収容人員は60名である。(8月号)
 ▼奈川村では昨年乗鞍頂上に至る登山道を開鑿したが、この登山路に村営小屋を建てることにした。7月松本営林署に借地願いを出した。(同)
 ▼槍ヶ岳付近の山小屋は非常な混雑をきたしているので、地元の安曇村では殺生小屋と肩の小屋との中間に村営小屋を新築することとし、松本営林署に借地願いを提出する。許可の暁には田村林学博士の意見を徴し、アルプス風の模範的な山小屋にする。(10月号)
 ▼近時、登山客の激増につれ狭隘を感ずるにいたった燕山荘は、工費23万円を投じて新様式の山小屋を建設すべく、経営者赤沼千尋氏は松本営林署に認可を申請した。(同)
 ▼餓鬼岳小屋が落成した。今後葛温泉と結んで登山者を吸収すべく、同温泉からの登山道の改修を行う。(同)

 ▼中部旅行協会の調べによる1933年の夏の登山者数は、
  富士山  101,814  
  御嶽 33,944 
  上高地 18,055
  白馬岳 5,830
  木曽駒 4,882 
  八ヶ岳 2,987
  甲斐駒 2,553
  槍ヶ岳 1,362
  槍―燕 1,268
  乗鞍岳 1,121
  針ノ木 642
  (11月号)
 ▼スイス山岳会所属の113の山小屋の利用者数は、七万五千七百五十余名に達し、前年に比べて九千八百人以上の増加を示した。(同)
 ▼安曇村では国立公園指定にそなえ、外国人向き登山案内人らに英語の素養を与えるべく講習会を開く。(同)
 ▼北アルプスの冬の山小屋使用は、乗鞍肩の小屋は1月8日までと3月18日から4月1日まで開く。部屋代一日50銭。冷泉小屋は1月15日までと3月10日から4月10日まで開き、三食つき一泊一円三十銭。槍ヶ岳一ノ俣小屋は年末から1月10日までと3月20日から4月16日までの間、二食付き一泊一円半で臨時営業する。栂池ヒュッテは5月下旬まで。唐松小屋は5月中旬まで三食一泊が二円、白馬頂上小屋は自炊一泊一円二十銭。(1934年1月号)

 あの時代、このような山岳文化が興っていたのだ。ここではほんの一部の紹介だが、「ケルン」の内容は、登山、スキー、自然の研究から文学、ジャーナリズム、民俗学、ヨーロッパやアジアの山岳と岳人と、多岐にわたっている。この「ケルン」に現れた、学生、市民、山岳関係者、山の民の活動と情熱はこんなにも質的量的に高かったのかと驚かされる。
 この「ケルン」がその後、どうなっていったか。戦争は拡大の一途をたどり、民衆の自由は抑圧されていった。「ケルン」もまた幕を閉じていく。(つづく)