山を愛する人に贈る <山岳雑誌「ケルン」終刊>

 山岳雑誌「ケルン」は、1938年5月号をもって終刊となった。5年間で60号が発刊された。日中戦争が全面展開に入るのは1937年7月7日である。僕が生まれたのはその12月だった。
 終刊号の最後に、たくさんの人の声が掲載されている。そのなかからいくつかの声を聞いてみよう。
 ▼ケルンが廃刊になると承って、悲しいような残念なような、名状しがたい胸のどよめきを覚えました。ちょうど前途有能な若者、その人を心から尊敬し、たのもしく思っていた方が突然山で死んだという報せを聞いたような気持ちです。数多い山の雑誌のなかでも内容はほんとに立派なものでした。まじめな、しかも高尚な内容でした。非常時だと何故に山の本をやめなくてはならないのでしょうか。不思議です。そんなに消極的にしなくてもいいでしょうに。探検とか遠征とかいうことは平時において大いにやり、非常時にこれを役立てるのが国家のためになるのではないでしょうか。ケルンのような本を廃刊にするのは時節に合わないような気がしてなりません。一度嵐に倒されたケルンの再び山頂に積まれる日を待ちましょう。(黒田初子)
 ▼かつてスコットランドの荒涼たる山頂のケルンに、誰が残したか野菊の花の捧げてあるのを見て、故国の石地蔵に赤い彼岸花のあげてある風情を思い浮かべたことがあった。今、「ケルン」が齢若くして早くも最終号にたちいたったと聞き、私は――貴き標石の前にそっと五月の野花をおいて、瞑目したいと思う。わびしかりし最近の時代において、もっとも高き価値を持っていたと信ずる。
 この時局はあらゆる方面において世の姿を変えつつある。不急なものの多くは、たといそれが国策に沿うものであっても、所詮失われていくであろう。大いなる日本の、生まれいずる悩みに、「ケルン」もまた寄与していこうとするのであろうか。(田中薫)
 ▼「ケルン」は積まれ始めた。しかしそれは苦闘の連続であったらしい。来るべきものが来たと思ったと同時に、よくも六十の「ケルン」を積み得たと、同人諸岳兄の健闘に心からなる感謝の念を捧げざるを得ない。
 「ケルン」は決して理想的ではなかったにしても、真に山を愛する人々にとっては、いまの日本の状態において、もっとも信頼すべき友として、その人々の技に心に、絶えざる滋味を与えてきたはずであろうと思う。今それが廃刊せられるということになると、耐えがたい寂寥にひとり取り残されたような思いがする。
 しかし自分はこの現実に対して、次の事実を認めて自ら慰めるものである。すなわち「積まれた『ケルン』はわずかに六十にすぎないが、その力はその幾千万倍にあたる偉大なものであり、日本の登山界に残された強固なる記念碑として、次の時代がその上に築かれ、営まれるであろう」ということである。(竹内亮)

 編集部の「終刊の言葉」のなかに、次のような文章があった。
 <小誌は第三十号以来、編集発行のすべてを、われわれ同人の手でやってきたのであったが、もとより一人の専任者もなく、それぞれ余暇の集積をもって事にあたっていた、しかるに「事変」(日中戦争)起こってより、各自の本務は一様に繁劇化し、ケルンのことにさきうる精力と時間とははなはだしく縮減をみることとなった。われわれは、もう一号、もう一号と、乏しきを押して頑張ってきたのであるが、今や近き機会においてこの情勢の転化を見難きことが明らかになった以上は、ただ単なる継続のための惰力的刊行をなすことは到底われらの良心の耐え得ざるところであるがゆえに、ついにここに終刊を決したのである。
創刊第一ページ、「さあケルンを積もう! 君たちの協力を待って。そして一つずつ小石を集め、積み重ねることにより、少しでも大きく、強く、頑丈に‥‥」と呼びかけて積み去り積み来った六十のケルン。ふりかえり見ればあるものは大きくがっちりと、あるものは弱々しく不安定に、峰を超え谷を渡って続いている。あるときは、狭霧に悩み、あるときは疾風におののき、時には蒼天に雀躍して築いてきたわれわれの道であるからには、感慨の尽きざるものありとはいえ、この終刊は別段の悲哀ではない。
 この日あることは、創刊の時よりひそかに予期したるところであり、むしろわれわれは至極円満に、平静に、他より何の掣肘をうくることなく、ここに蕪辞をつらねて刊を閉じることを悦びとするものである。>

戦争の時代、人々の心に忍び寄ってきた思いがあった。この「ケルン」の短い命に寄せられた山に情熱を傾けてきた人たちも、何かを予感しているかのようである。「ケルン」を読めば、ぼくの心はしーんと静まり、ひしひしと伝わってくるものがある。