子どもの原っぱ <1>



 「原っぱが消えた 遊ぶ子供たちの戦後史」(堀切直人 晶文社)は、世の大人たち、政治家たち、親たち、教師たちに読んでほしい本である。今の社会を観ていて、このまま行けば、子どもはどうなるだろう、人間社会はどうなるだろう、と思うことしばしばだが、この変化の危機的状態を世の人びとはあまり深刻に考えていない。
 「原っぱが消えた」は、明治からの変化を歴史的に浮き彫りにしている。
 著書の冒頭に、「野原の切れっぱし」と題した文章がある。
 「かつて、原っぱと呼ばれる空き地が日本のいたるところに存在していた。子どもたちはこの原っぱを遊び場として、日の暮れるまでそこで遊び回った。
 原っぱとは、野原の切れっぱしという意味だろう。野原はあまりに広過ぎるうえに、遠征しなければならないので、子どもたちの普段の遊び場とはなりにくい。家の近所にある、切れっぱしのような小さな原こそ、子どもたちの変わらぬ格好のテリトリーであった。子どもたちは原っぱに足を踏み入れた途端に、自分たちの心をしばりつけていた拘束から解き放たれて、全身に活力があふれ、大地との一体感を味わいながら、夢中で遊び回った。原っぱは、子どもたちのアジール(避難所)であり、サンクチュアリ(聖地)であった。
 この原っぱは昭和二十年代生まれの世代まで、子どもの頃の主要な遊び場であり続けてきた。これらの世代にとって、「はらっぱ」という言葉の響きは、喜び、開放感、メランコリーなどが交錯する思いを呼び覚ます。子どものころ、そこは探検の場とも、隠れ場所とも、戦場とも、野球場ともなった。そこは現実からファンタジーへの移行を可能とするワンダーランドであり、子どもたちが想像力によって変形できる多義的な空間であった。そこは謎に満ちたミステリアスな空間でもあり、日暮れ時には魔物が現れたり、人さらいが出没したりもした。
 しかし1960年代には、この原っぱは子どもたちのまわりから急速に失われていった。」
 著者はこうして語り始める。
 明治・大正のころ、「閑地(あきち)」はいたるところにあった。
 永井荷風は「日和下駄」のなかで「閑地(あきち)」について書いている。そこには雑草が茂り、チョウチョウやトンボ、キリギリスが飛んだり跳ねたりしている。草はそこを通り抜けていく人の下駄の歯に踏みしだかれ、小径が縦横にできる。昼は子どもの遊び場になり、夜は男女の密会の場になる。


 ぼくの小学時代の原っぱは、農村地域の町だったから、原っぱは野生にあふれていた。ススキの生い茂る原っぱは、基地をつくるにもってこいだ。背丈を超すススキの原に畳二畳ほどの空間をつくり、切り取ったススキを床に敷きつめ、近所の子どもらの安らぎの場にした。そこに寝そべると青空が円く見える。渡り鳥が行く。外からはまったく見えない。イタチがのぞく。キリギリスが鳴く。牛ガエルがボウボウと吠える。そこに本を持ちこんで冒険小説を読む。
 子ども時代は、こういう秘密基地、冒険基地、探検基地、観察基地のオアシスがあって、子どもの感性、知性、友情、想像力、創造性が育まれた。