いじめ自殺、その根源を考える (2)


 「いじめ」という現象は、人類の長い歴史を通じてずっと存在し続けてきたことだろう。力を持つ側が、一人や少数者に対して精神的肉体的に打撃を与える。それは、相手に対する不満、腹立ち、軽蔑、嫌悪、からかい、遊興、支配などの感情が行為となって現れている。標的にされた子は、屈服、従属、排斥の対象になる。この残酷な行為は、昔からあったものであるにしても、地域社会の力が子どもたちを包み込んでいた時代では、行き過ぎることはなく、セーブされていた。地域に子ども集団があり、年上の子と年下の子が一緒に遊んでいた時代では、年上の子の力が、行過ぎた行為をはばんでいた。ところが、地域コミュニティが消滅し、商業主義と情報化社会の波が家庭、学校、地域を翻弄しはじめてから、丸裸の子どもたちはコミュニティの掟に守られることがなくなった。学校で、「いじめはやめましょう」と口をすっぱくして言っても、子どもの中の、何かが動きだすと、現代的な「いじめ現象」となって出てくる。それに立ち向かう力を育てられていない子どもは、もろい。
 いじめ、暴走、学校拒否、精神的肉体的な症状など諸現象が時を同じくして噴出してきたのは1980年代だった。そうすると、そういう現象が出てくる前に潜伏期があったと思われ、その10年前20年前から形づくられていくこの国の文明のあり方が、80年ごろから現代にむけて、目に見える現象となって出てきたのではないかと思う。今や、「ひきこもり」は、若者だけでなく、40歳、50歳にまでひろがっている。
 戦前に名著「いたずらの発見」を著した戸塚廉は、1980年に「いたずら教育学」を書いている。
 「このごろの子どもの心の荒れよう、その背景にある大人の社会の乱れ、そして政治の荒廃、全世界に起こっている混乱を見聞きすると、えらそうなことを言っていても、人間はまだサルからは何ほども進化していないのだと思うことが多い。このままでは人類はほろびるということを言う人もいる。私は15年もまえから、このままにしておいては人間はまたサルにもどってしまうだろうと、じょうだんに言ってきたが、いよいよすててはおけない事態になってきた。」
 そして戸塚は50年前ごろ、発見したことを書いている。
「子どものころから、『いたずら』というものを知らず、教師からも親からも、ほとんどしかられたことのなかったわたしは、教師になって、教え子を平等に愛することのできない自分を発見し、その自分をたたきなおすために、五年間悪戦苦闘した。人間はだれでも生まれるときは天から"宇宙的な価値"を平等に与えられたのに、しばらくすると、かわいいのと、かわいくないのと、にくらしいのとにわかれる。これは子どもが悪いのではなくて、社会に欠陥があることに気づき、その社会を変えるために、数人の仲間と小さな教師対象の新聞を発行し、そのために特高警察の取調べを受け、山の学校にとばされた。喜びにあふれて地域ぐるみの教育を開始しようとしたとき、忽然として、わたしの手紙(学級通信)にあらわれたのが『いたずら』ということばであった。『いたずら』とは。既製の権力がつくりだす固定観念や規制を否定して、子どもの内部からふきだすエネルギーがつくりだす、自然で自由な創造活動である。
 『いたずらもいいが、あぶないことをやり、ケガをするから困る』とよく言われる。ところが、わたしに言わせれば、危険だから値打ちがある、ケガをするから価値があるのだ。人類の歴史は自然と社会がおしかぶせてくる危険とのたたかいであった。それをくぐりぬけてきたから、人類はこんな巨大な能力をもつようになったのだ。
 (おもしろい遊びは)全身全霊を統一し、集中しなくてはすぐに失敗するという危険がある。おもしろいという感情は、全身全霊が集中して危険をのりこえるときに生まれるものであり、それを経験することによって心身ともに発達するのである。」
 戸塚廉は1930年代の青年教師時代に、「いたすら」「遊び」の重要性を発見し、1980年に「いたずら」「遊び」が子どもの生活の中から変質し、消えている危険に警鐘を鳴らしたのである。
 「失敗の危険を冒して全身全霊を集中して遊ぶ、全身全霊を統一していたずらをする」、現代の子どもたちはそれを体験していない。いたずら、遊び、冒険、探検、これらは古代から子どもたちの世界につきものだった、たまらないほどおもしろく、時間を忘れるほど楽しく、はらはらどきどき胸を躍らせる、毎日がこの体験だった子ども時代が、今は消滅しているのである。体験していない子らであるから、その代替物を求めるのである。現代の「いじめ」は、本気になって遊び、いたずらをしたことのない子らが、「いじめ」という変形した「擬似遊戯」をおこなっているのではないか、本来子ども時代に体験しておかなければならないことができない子どもの生活、それが根源的な原因であるとぼくは思う。そのことをもう少し自分の体験から考えてみようと思う。(つづく)