教育実践の歴史<自由な職場>

 こんな学校が、昔あった。
 「この学校の職員室には名物のコタツがある。火鉢の上にコタツのやぐらのようなわくを上げ、それに毛布をかけ、板をのせて、そのめぐり(まわり)に椅子を持ち寄ってあたるのだが、このめぐりへ集まってはよく話し合った。
 こたつになっているので、少しの火でも暖かい。みんな椅子を寄せ合い、足をコタツの中に入れて、お茶を飲みながら気楽に話をする。だから、普通の職員室にいるような堅苦しい感じが少しもない。校長も職員も小使いさんも、学校外の人もいっしょになって、気楽に暖かく、いつまでもゆっくりと話し合うことができる。先生たちは教室から来ると、すっとその中に割り込み、また用事ができれば、すっとそこから抜け出てゆく。早く家へ帰る人は、その席から家へ帰ってゆく。私も帰る時間になると、村長でも教育委員でも村の人でも、そこにおいたまま先に帰った。」
 この文章は、かつてかの有名な群馬県の島小学校校長を勤めた斎藤喜博の文章である。彼の授業づくりは多くの教師たちに励ましと学びをもたらした。歴史に残る教師のひとりである。現代の教師たちはこの人を知っているだろうか。
 斎藤喜博は、集団の指揮者として心がけたことを次のように書いている。
 「私は先生たちを自由にしている。遅刻も早退も自由だ。けれども、私は実践のことについてはうるさく、きびしい。このことは、子どもに力をつける教師として当然のことであるし、私としては、先生たちに『よい腕』を持ってもらい、力のある子どもをらくに作り出せる先生になってもらいたいという願いがあり、義務がある。そしてこのことは、先生たちが将来教師として、しあわせを持つことでもあるから、校長としての私の責任である。」
 斎藤喜博は、授業を創る、学級を創る、そことでは遠慮容赦はしなかった。公開授業、研究会で互いに教師たちは遠慮なしに意見を出し合い、批評しあった。率直な意見が出し合える職場をつくる、それには自由がなくてはならない。自由な職場、それがベースにならなくてはならない。教師が何らかの奴隷になっているかぎり、何かに縛られているかぎり、自由な職員集団はつくれない。
 「本物の腕を持った仲間になってもらい、日本の課題にこたえ、親たちの願いに答え、今の現状から子どもたちを、教師を、親たちを、少しでも抜け出させたい。そういう厳しさをもった仲間だから、職場の中に自由と明るさがあり、一方仕事に対しては、どんな苦しさにも耐えられる強さと粘りがあるのだ。自由とか解放とかは、そういうきびしさをつくりだすためにあるのであり、そういう厳しい仕事をするためにこそ、真の意味での自由とか解放とかが必要になってくるのだ。」
その後、日本の学校の校舎・施設はりっぱになった。職員室の暖房は、便利になり暖かくなった。では、 あの時代から、学校は変わったのか、変わっていないのか、進歩したのか、逆に退歩したのか。半世紀がたっている。
 新しく建てられる学校の職員室の中に、薪ストーブが燃えて、教師たちが団欒している。子どもの姿もある。そんな学校をつくろうという発想は生まれないものか。