理想なしの教育は成り立たない


 「写真集  いのち、この美しきもの」(監修・斎藤喜博 写真・川島浩 筑摩書房)から



学校は2学期を迎える。
体育祭、文化祭、遠足などがあり、学級活動も授業も最も充実するとき。
「写真集  いのち、この美しきもの」(監修・斎藤喜博 写真・川島浩 筑摩書房)を本棚から引っ張り出して、
ぼくはひととき1964〜69年の群馬県境小学校の子どもたちの姿に見入っていた。
合唱する子どもたち、群舞する子どもたち、体操する子どもたち、劇を演ずる子どもたち、
こんなにも子どもたちは、りりしく美しい。


みんな理想を描いて教師になった。
しかし現実を前にして理想がしぼんでいった。
理想なんて絵に描いたもちで、実現することはない、幻想に過ぎない、
そう考えるようになるほど、現実は困難で苦労が連続する。
かくして教壇に立ってはいても理想を失う教師が多くなっていった。
無気力に、惰性の如く毎日を送っているような教師をずいぶんたくさん見てきた。
それが教育の沈滞をもたらす一因になっていると思うのだが。


理想をもたない教師の教育は教育にならない。
希望も同じ。
希望をもたない教師の教育は教育にならない。


職場の中に、理想をもち、希望を胸に秘めて実践している人はいるものだ。
職場の中で、ひたすら子どもたちに向き合って実践している人はいるものだ。
そういう人がいるかぎり、そこにはきっと現れてくるものがある。
子どもたちの姿の中に現れてくるものがある。


子どもがよくないから、よい授業ができない、
生徒が言うことをきかないから、指導できない、
相手が悪いから、自分の理想が実現しないのだという考え方。
幅を利かすこの考え方は教育だけではない。
夫婦間でも、大きければ民族間、国家間でも紛争の種になる。


状況のせいにしないで実践を創造していく、そこに楽しみを見出す。
理想の追求は苦しみもあるが、楽しいものだ。


写真集の子どもたちと実践した斎藤喜博の言葉。
戦後の教育に大きな実践を残した先人が書いている。

「教育という仕事、学校教育という仕事を、私はつくり出す仕事、すなわち創造の仕事だと考えている。
 それは、一人一人の子どもの誰もが持っている可能性を表に引き出し、一人一人の子どもや、学級全体や学校全体の中に、確かな形のあるものとして新鮮に具体的につくり出すことによって、個人なり学級なり学校全体なりを、それまでとは別のものにつくり出していく仕事だからである。」


さらにこう述べている。

「学校教育は、単に固定的な既成の知識を、機械的に一方的に教え込むだけであってはならないはずである。
知識を『教える』ということは、子どもたちの持っている可能性を引き出し育てるためにあるのであり、可能性を引き出し育てる努力の中に『教える』ということがあるのであり、決して『教える』ことだけに目的があり意味があるのではない。
 固定的な知識とか技能とかだけを固定的に一方的に教え込んだだけでは、それは教育という仕事にはならないし、子どもの持っている可能性を引き出し育てることなどできない。それどころか逆に子どもたちの持っている可能性を押しつぶし、子どもたちの人間をゆがめてしまうだけである。子どもたちが卑屈になったり無気力になったり反抗的になったりするのは、みなそういう間違った教育の結果であると考えてもよいことである。」


そして理想の追求を語った。

「そういう創造的な学校教育での仕事は、つねに質の高さを要求されるものである。教育という仕事は、もともと理想的なものであり質の高さを追い求めるものであるが、子どもたちの可能性を引き出しつくり出すような仕事の場合は、とくに質の高さを必要とする。それは質の高さを強烈に追い求めることによって、そのすじみちの中でまた質の高さを獲得することによって、自分の持っている可能性を表に引き出し、形にすることができるからである。」


教師は、そういう仕事をする人であるから、とうぜん厳しさがつきまとう。
子どもたちが全員跳び箱を跳べるようになるという目標を立てると、
そうなるように、実現できるように、理を見出す。
理想の実現には、理の発見が必要となる。
たえざる追究と創造なしに教育という仕事はなしえない。
教師も子どもも、自分の主体をかけて、全心身の力をつかってやらなければできないことだと言い切った大先輩の仕事は、そのときの子どもたちの写真に残されている。