槙枝元文さんのリーダー像 『稔るほど頭を垂れる稲穂かな』


蚕のこたつ。冬の蚕室で使われた。


 「もしもし、槙枝ですが。3月8日から一ヶ月、先生のご都合はどうでしょうか。」
ゆったりとした声が、少ししゃがれている。まぎれもない槙枝元文さんだ。中国からやってくる技能研修生に対する日本語指導への教師要請は、槙枝さんからじきじきにやってくるのが常だった。日本語研修は、東京に本部のある財団法人・日中技能者交流センターの事業の一つで、槙枝さんはセンターの産みの親であり、初代理事長だった。
 それまでぼくの知っていた槙枝さんは、日教組委員長から総評議長へと労働運動のトップで活躍している槙枝さんであったが、引退して余生を日中友好事業につくされる槙枝さんは全くの好々爺で、体からすっかり「闘争」というものが抜けてしまっていた。

 教師たち一人ひとりに電話をかけ、その都合を聞き、手帳に名前を書いて必要なメンバーをそろえるという仕事は、他の職員がやればいいものでああったが、槙枝さんはそれを自分で行ない、トップの椅子に座って指示をするようなリーダーではなかった。庶民に直接接しなければ庶民のことは分からない、直接その人と話さなければその人が分からない、それを実践しておられた。
 一ヶ月の研修での指導が終わり、教師たちが全国各地へ戻っていく前の日、閉講式にやってきた槙枝さんは、教師一人ひとりと面談された。
「今回は、どうでしたか。」
ニコニコと笑いながら、庶民代表という表情で話を聞かれる。
「次はまた来てもらえますかな。希望はありますかな。」
 こうして一ヶ月の教師たちの実態を知り、次のスケジュールに備えておられた。
 槙枝さんの泊まる宿は研修所近くのビジネスホテルだった。
 閉講式の前夜は一ヶ月の合宿指導を終えた教師たちを慰労する食事会が用意された。研修所は愛知の西尾と岐阜羽島にあったが、岐阜へ来られたときは、ウナギの店がお決まりの会場だった。場所をどこにするか、それを決めるのは教師たちだったが、槙枝さんが大のウナギの蒲焼好きだったから、長良川で獲れたウナギと称して、ウナギの炭火焼きをたべさせてくれる定番の店があった。その店のウナギの蒲焼はまことにうまかった。槙枝さんは、
「東京の蒲焼と関西の蒲焼はちがうんだよ。私は岡山だから関西の蒲焼が食べたくてね。関西のは焼き方がちがうんだね。おいしいね。」
そう言って、うまそうに食べておられた。
 槙枝さんはヘビースモーカーだった。いつもふところにピースの箱を忍ばせていて、ときどき青い箱から一本を抜き出して火をつける。
「このおかげで、長生きしているんですよ。ハハハ。」
「畑のほうはどうですか。」
 ぼくは槙枝さんが家庭菜園を作っておられることを知っていたから、どんな野菜を作っておられるのか、よく聞いた。野菜談義は、ふーっと心も体も軽くする会話になった。教職員組合の運動や労働運動のトップであったときは、土に触れることなどできなかった。それが今はできる喜びがひしひしと伝わってくる、楽しい会話になった。
「帰ったら、畑の草引きだね。」
「私も、約一反近くを耕していますよ。草対策は猛烈です。
「その広さだとたいへんだね。」
 ぼくは同僚としみじみと話す。
「槙枝さんは、まさに『稔るほど頭を垂れる稲穂かな』の人ですね。」
「ほんとうに、私などなかなかそうなれないです。」


 槙枝さんは、1986年国連の提唱する「国際平和年」に、日本は唯一の被爆国であり、意見の違いを超えて、国民的な核廃絶の運動を起こそうと、労働運動と住民運動とが連帯する運動に加わられた。
「私は左翼でもない、右翼でもない、そういう幅広い運動を起したい」、それが槙枝さんの願いだった。
それから25年後、福島原発事故が起きた。
核兵器原発もなくそう」という国民的な運動の盛り上がりはどうなっているのだろう。
 二年前、槙枝さんはこの世を去られた。 
 この28日、「サラバ原発 長野県民集会」が松本市で開かれる。3月11日には「サラバ原発長野県大行進」が計画されている。参加しよう。