大阪・桜宮高校体罰事件の底を問う<2>

 学校という組織は、教師一人ひとりに任される部分が多い。学級づくり、授業、部活動、それぞれ担任や顧問がほとんど単独で指導する。それゆえにかつて、「学級王国」という言葉も生まれた。小学校は学級担任がほとんど自分のクラスを教えるから、担任の個性、指導力、精神性、思想などが学級に反映して独立王国のようになる。指導力がなければ烏合の衆になり、果ては学級崩壊に至る、逆に権力的に支配すれば萎縮した子どもの集まりになって自発的、個性的な生徒の動きはなくなってしまう。指導力をもつ教師が、生徒の力、意欲をうまく引き出せば、団結し活動的で、自分たちの力で創っていくクラスが生まれてきたりもする。一人の顧問が指導する中学・高校の部活動においても、「部活王国」になっていることが多い。「王国」という言葉には担任が王様になっているという意味もこめられている。独善的、あるいは独裁的な集団づくりにもなる危険を自覚すべきだということでもある。集団の状況を見ると、むしろ「家族」と言ったほうがいいようなクラスやクラブもある。
 ところで、ぼくのめざしてきたのは、こういうことだった。担任の教師が、適切な活動を組織しつつ、生徒の自主性を引き出すために手を引くところで距離を置いて生徒に任せる指導法をとる。いろんな条件や要素がからむことではあるが、概論的に言えば、そうして生徒たちのなかのチームワークを育てていくと、生徒のモラールが上がり、目を見張るような創造性が出てくることがある。そして、みんなの考えや意欲を引き出しまとめていくリーダーシップを発揮する核になる子が、その中から姿を現してくる。そうなってくると、生徒集団は自立的に動き出す。生徒の持つ力に胸躍らせ、教師という仕事の喜びをしみじみとかみしめるのはこのような体験をしたときである。生徒が自発的に互いの力を結び合って動き出すような体験をした教師は、教育のめざすべき方向性に向かって努力を惜しまなくなる。そういう教師たちの実践が他の教師たちに影響を与え、こうして教師集団は、自分の殻に閉じこもる分散した教師の集まりではなく、チームワークをもって切磋琢磨する、教育理念を共有する集団に変わっていくのである、というのがぼくのめざす指導である。
 けれども、その道は容易ではない。実態はどうか。
 今の学校に教師同士の議論があるだろうか。異なる意見をぶつけあう、率直な意見のやり取りがあるだろうか。職員会議でも討議がなく、伝達や管理職からの発言が中心で、他の教員はもの言わず聞いている。そういう教師集団では活力は生まれず、学びもチームワークも育たない。さらにボス的な教師が君臨していたら、教師たちは服従集団になるばかりだ。学級や授業で、教師は自分の力を発揮してやりたいことをやろうとしているだろうか。それのないところに発見はなく、他の教師との実践交流も起こらない。ボスへのアドバイスも、批判も、異見も出てこない。
 校長はどうだろう。教職員が生き生きと討論し、自分の可能性を発露できる学校になるよう指導性を発揮しているだろうか。残念ながらぼくの体験では、そういう校長はきわめて少なかった。主観であるが、どうしてこういう人が校長になれたのか、不思議に思うことがしばしばであった。
 長野県においても、近年数々の教師による不祥事が起こっている。起こるたびに、教育委員会や校長のおわびが行なわれ、二度と起こらないように対策を講じるとメッセージが出され、当該教師への処分がなされる。教育委員会は校長たちを集め、会議が行なわれる。しかし、本質的に何も変わらないだろう。上意下達だけの会議からは意欲的な実践も独創的な考えも生まれない。不祥事が多いということは、教育界と学校の教師集団に何らかの問題がある。
 40年ほど前、大阪で教育汚職が摘発され、教職員組合は教育汚職と学閥人事を糾弾する闘いを展開したことがあった。その事件は、校長になるために、学閥のボスに賄賂を贈っていた、人事にまつわる汚職事件であった。大阪の教育界には、学閥の先輩後輩でつくる組織がいくつかあり、学校のなかにも出身大学の先輩後輩の関係が出来て、その力関係が学校教育に影響を及ぼしていた。学閥は、校長、教頭の人事に隠然たる力を発揮した。だから校長になりたいと思う教師は、閥の先輩教師、先輩校長に取り入ったのだった。校長になる資質がなくても、先輩の実力者から教育委員会へとつながれば出世できる。この校長人事の汚職が警察の調べで明るみに出て、教職員組合が動いた。激しい闘いが繰り広げられた。教育を支配する学閥から所属している組合員はひとりひとり脱退する、こうして自己を問い直す運動を繰り広げたのだった。
 それは過去のことであろうか。桜宮高校事件は大阪のことであろうか。長野県の教育構造の中に、教育の改革を押しとどめる力が働いていないか。学校の中に漂うむなしさ、無気力。事件の底を問うのはこのことである。授業も学級も学校も、閉ざされた世界にするのではなく、実態を公開して、問題を抉り出すことである。