野の記憶   <10>

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野の記憶 (「安曇野文芸2019・5」所収・改稿)

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 森林官の加藤博二は「深山の棲息者たち」という著作を、日中戦争が始まった年に出版している。そのなかに「安曇踊り」の話が出てくる。

 「常念岳の麓に、豊科という人口五千ばかりの町があるが、ここが安曇節の産地である。野良に働く百姓が、輪をつくって音頭取りを真ん中にして踊る。」

 

  寄れや寄ってこい安曇の踊り

  田から町から 田から町から野山から

  野山から 野山から  チョコサイコラコイ 

 

  安曇踊りと三日月様は

  次第次第に 次第次第に円くなる

  円くなる 円くなる  チョコサイコラコイ

 

 歌詞の変わるごとに、「チョコサイコラコイ」と掛け声が入る。こうして連続する長い歌詞が歌い継がれ、いよいよ最後になる。

 

    まめで逢いましょ又来る年も/踊る輪のなか月の夜

 

 この歌詞で一段落すると、若人たちの嬉しい踊りになる。

 

   唄はさんざよ踊りもさんざ/誰かゆかぬか豆畑…

 

   豆の畑に行かぬじゃないが/豆に葉がなきゃおかしかろ…

 

 すると、若い男女は次第に輪を離れて、暗がりの中に姿を消し、好きな相手と盆の夜を楽しむ。

 こうして盆踊りは若い男女の解放の場にもなっていた。だが、安曇踊りは戦争のうねりのなかに消えていった。若い男は戦場に出ていき、女は銃後の守りについたのだった。

 河内野に住んでいた僕の戦後の夏は、河内音頭の夏だった。盆が近づくと、遠くから拡声器に乗せられた河内音頭があちこちから聞こえてきる。盆踊りの宵は、子どもも大人もやぐらの周りに踊りの輪を作った。

 安曇節に初めて出会ったのは、大学山岳部の合宿の時であった。夜行の蒸気機関車の列車に揺られて信州の山をめざした。穂高の涸沢に入り、大雪渓を前にしたとき、誰か山男が歌っていた。

 

    岩魚(いわな)釣る子に山路を問えば/雲の彼方を竿で指す…

 

    ザイルかついで穂高の山に/明日は男の度胸試し…

 

 山男たちは自作の歌詞を自己流の素朴な節回しで歌っていた。安曇節は山男に愛され、数知れぬ安曇節が生まれていた。

 だが今はもう、松川村以外、安曇野のどこからも安曇節は聞こえてこない。山男の歌う声も聞こえない。