高齢化社会の孤独 

車を運転しながら、白髪頭の彼はぽつりぽつり話し出した。
「吉田さんだから、こんなこと話すんだけれど‥‥、」
改まっていったい何? ぼくは助手席に座っていた。
車のライトは雪道を遠くまで照らしている。
「みんな子どもを大学に入れて、よい仕事に就けるだろうと、この辺りの親たちもやってきたけれど、
ところが大学を出たら、都会で就職して、そっちに住んで、そのままもうここには帰ってこんようになってる。
それだから、わたしは二人の子どもを大学に行かせなかったんですよ。
息子は高校を出て大手の会社に入って、初めは地元で勤務していたけれど、去年から都会勤務になって嫁と一緒に都会へ行ってしもうた。家族一緒に住めなくなったよ。
今になって思うんだけど、やっぱり大学出のほうが会社では有利だから、大学に行かせるべきだったかと。
こちらに帰ってきてほしいと思うけれど、こちらに転勤を希望すれば、それなら会社を辞めなさい、と会社は言うだろうね。」
一昨年大病をした彼は、その後は元気になったが、息子たちがいない老夫婦だけの生活が寂しい。
「吉田さんのところはどうですか。」
「いやあ、私の息子たちも、長男は東京、次男は神戸で世帯を持っていますが、私が終の棲家を安曇野にと考えた七年ほど前は、あまりそんなことは考えずにこちらに移住して来たけれど、今ときどき、その時の選択はよかったのかなあと考えることがありますよ。」
 多くの家で、息子が町に出て独立してしまい、親元に戻ってくることが少ないということになるとこの地域もどうなるだろう。
「私たち夫婦も、お隣も、そのまた隣も、あと10年経てば、どうです、ご近所みんな同じような高齢化夫婦ですよ。
四年ほど前、福岡に住んでいた私の仕事仲間がね、東京に住んでいる息子が近くで一緒に住もうと言うもんだから、東京に引越ししたと言うんですよ。
公団住宅だったかな、空き家抽選に応募したら部屋が当たって、そこに引越しした。そうしたら、全く便利な暮らしで、ちょっと歩いたら図書館はある、病院はある、区役所もすぐのところだし、散歩すれば緑の公園もある、バスも地下鉄も高齢者はタダ、家賃は安い、そして近くの息子家族とも毎日会える、この決断はよかったと絶賛するんですよ。」
その話を聞いた時、東京は便利で暮らしやすくても、やはり自然の豊かなところがいいと思ったものだが、最近は少し見方が変わってきて、地域社会を支えていく若者が今後どうなっていくか、これはかなり深刻な問題をはらんできていると思うようになった。


 十数年前、かねて考えていた「森の学校」をつくろうと、廃校を探して奈良の山間を巡ったことがあった。山また山のなか、大峰山に至る行者街道を探索していると、街道から奥まったところに小さな集落があり、そこに明治期の木造校舎がこつぜんと建っているのに出会った。それは眺めているだけでもなつかしくなってくるものだった。
 廃校になってからも地区民の活動の場に体育館は使用されていたが、グランドには草が生い茂り、フジ蔓がはいのぼる校舎は老朽化して使えないということであった。
 近くには清流があり、森は深く、自然のなかでの体験学習にはもってこいだと思って、その地区の区長さんを訪ねると、七十歳は過ぎたかと思われる区長さんは自転車で学校まで来てくださった。
 「この校舎は、映画の撮影にも使われたことがありますよ。でも今は危険で使えません。この地区は、イチニ、イチニ、ヤスメ、ヤスメですよ」
と言う。ぼくは、「12、12、‥‥」と掛け声をかけて行進し、「ヤスメ」で停止してヤスメの姿勢をする隊列を想像した。
が、すぐになるほどと合点がいった。
 「イチニ」は一人暮らしと二人暮らし、「ヤスメ」は空き家、すなわち高齢者の一人暮らしの隣は高齢者の夫婦、それが続いて人住まぬ家が並んでいる。ここは限界集落だと言うのだった。
 その地をもっと探すと、廃校は四校見つかった。そしていずれも行政は、なすすべを失っていた。峠のてっぺんで見つけた、これも明治初期に建てられた小学校の廃校には、創立時の記念碑があり、そこに「学校に希望をたくして未来を築いていこう」という意味の文章があった。
 学校と子どもたちは地域の希望であったのだ。
 吉野郡での「森の学校づくり」は実現しなかった。行政も許可しなかった。
 熊野古道につらなるあの限界集落は今どうなっているだろう。人住まぬ廃村になっているだろうか。


 ぼくの住むこの地は、松本市に隣接する安曇野市だから、まだ若い住民の転入もある。限界集落にはならないだろう。
 しかし、周囲を見回して一軒一軒見ていくと、子どもの姿は少なく、一人暮らし、二人暮しの高齢者が圧倒的だ。あと10年後、20年後になると、日本全体が人口減になり、高齢者がさらに増加するように、この地もまた生産人口と子ども人口は激減していく。
 それにもかかわらず、その変化を予想して社会をつくっていくという意識的な取り組みは行政にも住民にも全く無い。