「凍ばれる」


 大震災後、ご近所のOさんが福島の出身で、大震災と原発事故によって親族が避難住宅にいるからと、何度か車で現地へ行かれたことがあった。Oさんと立ち話をしたとき、どういうきっかけだったか忘れてしまったけれど、阿武隈山地で開拓生活を送り、すぐれた文学作品を残した吉野せいの名が話に出たことがあった。名前と作品だけのことだったけれど、福島出身だから吉野せいをOさんは知っていたということがぼくの心に強く響いた。
 吉野せいは、夫の混沌が亡くなってから、詩人の草野心平の強い勧めでペンを執るようになった。せいは71歳だった。1971年、彼女は、詩人の山村暮鳥が混沌に宛てた書簡を軸にした評伝『暮鳥と混沌』を著す。1974年、『洟(はな)をたらした神』を書き、作品は大宅壮一ノンフィクション賞田村俊子賞を受賞した。
 串田孫一は、『洟(はな)をたらした神』の序文を書き、せいの文章についてこんなことを述べていた。
 「吉野せいさんの文章は、(書くことを仕事としている人の文章とは)がらっと異質で、私はうろたえた。たとえばろ紙での仕上げばかり気にかけ、いわばごまかしの技法をひそかに大切にしていた私は、張り手を食ったようだった。この文章はろ紙などをかけて体裁を整えたものではない。刃こぼれのどこにもない斧で、一度ですぱっと木を割ったような、狂いのない切れ味に圧倒された。」
 ぼくがOさんと立ち話を交わしたとき、ぼくの頭に、福島原発事故放射能は、西に流れたら阿武隈山地に至る、阿武隈山地の菊竹山は、吉野混沌とせいが開墾したところだ、というのが浮かんだのだった。
せいは『洟(はな)をたらした神』のあとがき(1974年)に、こう書く。
 「1921年に開拓農民吉野混沌と結婚、以後一町六反歩を開墾、一町歩の梨畑と自給の穀物をつくり、渾身の血汗を絞りました。けれども無資本の悲しさと、農村不況大暴れ時代の波にずぶ濡れて、生命をつないだのが不思議のように思い返されます。‥‥生活の重荷、労働の過重、六人の子女の養育に、満身風雪をもろに浴びました。」
 せいは、『洟(はな)をたらした神』に収めた「凍ばれる」というエッセイのなかに、こんなことを書いている。
 「四十年前、北海道へ移民して開拓に挫折はしたが、代わりに詩集『移住民』を残して死んだ友達については、さまざまな思い出を忘れはしない。この菊竹山に骨肉以上につながれている書かねばならぬ遠い血みどろの思いを、いつもはかはかと気ばかりが灼かれている。だが今日は、荒っぽいハガキ便りの中から、凍(し)ばれるという言葉をはじめてきいた。
 寒さを表現するのに実にぴったりした語音の妙に、私はその時ぎくりとした。凛々(りんりん)とか、しんしんとか、凍てつくとか、皮膚をさすとか、凍るはがねとか、白魔の爪牙などと、冷寒を訴えるさまざまなことばの色は巧みに塗りたくられるけれど、凍ばれるという韻律の響きは、冬空の下で、万物が一時息絶えたかと思われる凝然とした凍結の世界を一語でざくりとえぐりぬいて見せる。
 けさ起きてみると、戸外はその凍ばれる朝であった。」
 こう書き出して、せいは、テレビで見た山陰地方の廃村地区に生きる老いたる人を描いて、そしてまた阿武隈の暮らしをつづっている。
 「死んだ混沌もあんな形で畑にへばりついていたのをありありと思い出す。振り向くひまもなく、かまいつける時を惜しんで、自分もまた破れがらすのようなそぼくれ姿で、ただ土の上を這い歩いたことが、貧乏とは縁の切れぬ開拓一筋だけに生ききった、かたくななきびしさを、ただ無情なうつけとささやく風を耳にするとき、私の胸は追いつかぬ悔いともなり、怒りともなり、きちきちと鳴りひびらいてふるえる。」

 2014年、東北の地や福島の地では、土地を奪われ、家族、住むところを失い、仮設住宅の中でかすかに希望をつかみ得るかと生きる人たちがおり、世界のあちらでもこちらでも、支配と政治に翻弄され、内戦に引き裂かれ、勝ち負けの銃弾におびえて、一縷の希望も遠き果てのような中に生きる人たちがいる。