陰惨な言葉

 子どもの世界に起こるさまざまな問題は、子どもの世界特有の問題ではなく、大人社会すなわちこの国の社会の問題が子どもの世界に影響している。
 ヘイトスピーチ(憎悪発言)が大手を振って行われる国の姿、それはとても暗く陰惨だ。「死ね」とか「殺せ」とか、そういう直接的攻撃表現が市民社会のデモのなかで叫ばれている状況は、戦後という時代のなかではかつてない。日本が民主的な成熟社会に向かっているとは、とても思えない。
 いくつかの大衆週刊誌の広告が毎週新聞の下欄に大きく載る。これ見よがしの太文字が黒々と紙面に威勢よく出る。最近は朝日新聞をたたく記事が多い。何年も前から個人や政党、政府を攻撃対象にした表現は可能な限りショッキングな言い回しをしようとする。真実を究明しようとか、討論で問題を明らかにしようとかという姿勢は感じられない。完膚なきまでたたきのめして売り上げを伸ばす、そういう商売なんだろうが、言論に品格がないのは、たたく側の思いあがり、傲慢さ、力づくというのがつきまとうからだ。人への敬意が感じられない罵倒記事は、読む人に殺伐とした気持ちを抱かせる。

 9月28日、こんな投書が掲載されていた。女子高校生の記事だった。(朝日新聞

 <小学校低学年のとき、いじめられた。「変っている」「死ね」などと、ひどい言葉を浴びせられた。木の枝を無理に食べさせられたこともあった。誰にも言えなかった。筆箱に「助けて」と書いた。気づいたのは母。隠したかったいじめだけど、気づいてもらえて、救われた。
 8歳のとき、米国の学校に転校した。そこで大切な友人を失った。がんだった彼女は、つらい治療中も私にはいつも笑顔だった。彼女の死は、お菓子を分け合ったり、一緒にマニキュアを塗ったりする当たり前の日常が、かけがえのないものだと教えてくれた。
 日本では、テレビでも学校でも、「死んじゃう」「死ね」の言葉が軽々しく使われる。しかし、私も経験したいじめの世界では、最初は冗談だった言葉が、本当の死へとエスカレートする。「死」という言葉を軽んじる風潮を、私は断固として食い止めたい。
 命を大切にする世界が、容易に実現するとは思わない。でも、難しくても私が決意すればいい。私は「死ね」という言葉を使わない。亡くなった友人も喜ぶはずだ。>

 クラスという集団、学校という集団を、どんな集団に育てていくか、それが教師にとって重要な実践になるのだが、単に教科書を教えていくことしかやろうとしない教師がいる。それがいじめの温室となる。クラスのなかに力を持つ子もおり、その子を取り巻く集団やグループの意思が存在すると、異論を持つものを異物として排除しようとする。無視するか排斥するか、力づくで抑えるか、そういう力の作用がいじめとなってくる。エスカレートして、「死ね」とか「殺せ」という言葉に慣れ、鈍感になり、弱者を目障りにする。
 少数の意見や弱い立場の人の意見を受け止めて、冷静に議論していく集団、それが民主的な集団づくりだが、学校という世界にそれが根づいてこなかったということなれば、現代の教育は恐ろしい不毛を社会にもたらすだろう。
 高橋源一郎も指摘していたが、
 「ひどすぎる、ほんとに。罵詈雑言の嵐。そして『反日』『売国』といった言葉が頻出する。気がつけば、おれたちの国では、『憎しみ』と軽侮に満ち、相手を一方的に叩きのめす『語法』が広がっている。」

 かつて朝日新聞阪神支局の記者が「赤報隊」なる人物によって暗殺されるという事件があった。民主主義になっても、かつての軍国主義の時代のやり方が生きている。この事件は解決しなかった。そして今また、本質から脱却した、排撃である。
 要注意の国になってきた。