国際交流が子どもたちにもたらすもの


ずいぶん過去のことになるが、この実践を記しておかねばならない。
それは鮮烈な感動だった。
1971年、創立間もない大阪市立矢田南中学校生徒会は、在日朝鮮学校の中学高校生徒たち100名ばかりを学校に招き、交流会を開いた。
彼らは日本で生まれ日本で育った在日の人たちであったが、日本の生徒たちは、異文化との直接的な触れあいに、目を見張った。
第1部の全体交流は講堂で行われた。
ステージの上で、朝鮮民族学校の生徒たちは、生き生きと民族楽器を演奏し、民族舞踊を舞い踊り、吹奏楽を演奏した。
日本人生徒たちは、まず、民族学校生の率直明朗で豊かな表現力に感心した。
そして民族の伝統文化に誇りを持ちそれを大切にしている彼らに比べて、自分たちの伝統文化とは何なんだと問い返さざるを得なかった。
全体交流が終わると、生徒たちは各クラスに分かれ、教室の中で語り合った。
矢田南中学には被差別部落の子どもたちがたくさんいた。
民族学校の生徒たちと、部落の生徒たちとは、歴史も文化も異なってはいるが、置かれている社会的立場に感じあうものがあるようであった。
日本の生徒たちは民族学校の生徒の話を真剣に聞き入る。
どんな暮らしをしているのか、将来にどんな希望を抱いているのか、どの教室も和やかに盛り上がった。
交流会が終わって民族学校の生徒たちが帰っていくとき、校舎の窓から身を乗り出した矢田南中学校の生徒たちは、彼らの姿が見えなくなるまで手を振っていた。
民族学校の生徒たちも、振り返り振り返り叫んでいた、「アンニョンヒ−」。
友情が芽生えていた。
日本人生徒たちの心には一種の尊敬の念さえ生まれていた。
交流のもたらしたものは大きかった。
同じ日本に住んでいながら、日本の学校の生徒たちにとっては知らないことばかりであった。偏見もあった。無知を知り、偏見が崩れ、まさに目から鱗の一日だった。民族学校の生徒たちにとっても日本についての偏見が崩れた一日でもあった。
私はこの交流会の意義の大きさをやってみて知り、これは今後も継続してやらねばならなことだと思った。
そして3年間に一回、国際文化交流としての民族学校交流を実施したのだった。
1980年代は、転勤した加美中学校でも続けた。朝鮮半島の南北分断を反映した二つの民族学校が存在していたから、朝鮮学校と建国学校、南北両方との実践になった。
この教育実践から明らかになったことは、「他民族の文化との出会い」がもたらす教育効果の大きさだった。
学校は閉鎖社会になりがちである。
閉鎖度が高ければ高いほど、統率され、同調し、異質なものを排除し、異文化から遠ざかっていく。
そうして学校は固定化し停滞する。
そんな学校に、異文化との直接的な出会いをつくることは、真理を探究する新鮮な学びをもたらし、共生の思想と共生社会をつくる実践力が生まれる。

友人に、中高一貫校の教師をしている男がいた。
彼の学校では、フィリピン修学旅行を行ない、フィリピンの最も貧しい、孤児たちとの交流を行っているということだった。
その体験は生徒を劇的に変えると友人は言った。
中国東北部へ、ホームステイを取り入れた修学旅行をしている高校もある。
これらは修学旅行の壁を超える実践だ。
別の友人は、モンゴルで出会ったマンホールチルドレンたちを小学校に招いて、交流する実践を学校挙げて行ったという話をしてくれた。
現代日本社会には、在日コリアンのほかに、ブラジル人、中国人、ベトナム人、フィリピン人、モンゴル人、カンボジア人などたくさんの外国人が住んでいて、その子等の学校も生まれている。
これから国際化はもっと進むだろう。
しかし、日本の学校では、これらの外国人学校の子どもや企業で働く青年たちとの交流はほとんど行われていない。
もしその交流が実現できるならば、日本の学校は、貴重な教育の場を得ることになるだろう。
日本人にとっても、外国人にとっても、直接的な交流は相互に大きな教育効果をもたらす。
外国人だけでなく、都会の学校が、山の学校や農村の学校、島の学校と交流し、農林業や漁業やその地の暮らしを体験するのも、異文化との出会いになる。
学校を変える、教育を変える、子どもを変える、
理想を描いて実践を掘ることをもっとやれないだろうか。