今年はどの山へ登ろうか

 大阪の学校の夏休みは7月21日からだった。
 夏休みに入ると、学校から生徒たちの声が消えた。がらんと静まるグランドや教室に、一部の部活の子どもたちの声だけが聞こえる。乾いた運動場に夏の日が照り返す。広がる解放感と自由はたまらない魅力だった。もう何十年も昔のことだが。
 ぼくは登山部の指導をしていた。登山部の生徒たちがやってきて、夏山の準備が始まる。目的の山の登山計画を練り、食料計画をたて、準備の段取りを立てる。
「去年は大峰山系に登ったなあ。今年は大台ケ原山系に登ろう」
 年を重ねてレベルを上げ、木曽の御岳まで登った。淀川中学校勤務のときだった。
 矢田の中学校に移ってからも、学校の授業から解き放たれた子どもたちとの冒険は続いた。比良山系の全山縦走、大峰最高峰への挑戦、弥山谷の遡行。
 生徒と登る山とは別に、自分の登山計画があった。大学山岳部の仲間と未踏のルートへの挑戦、卒業生とともに南アルプス縦走、同僚たちを連れて北アルプス登山、毎年夏休みが来ると、あふれくる山への想いがあった。

 半世紀がたち、日本の学校の教師と子どもたちの夏休みは、どうなっているだろう。生徒が夏休みでも教師は夏休みではない、教師は出勤する義務があり学校に出勤しなくてはならないという形式主義的な拘束がかたくなに行われている。だがこのときこそ、教師たちは翼を広げて自由な教育研究にたずさわり、旅に出、生徒とともに体験し研究し、生徒一人ひとりの個性にあった指導もできる期間なのだ。自由な研修を認めることが必要なのだ。だが、研修の幅は制限され、ロングの旅行はままならなくなっていると聞く。

 神戸にいる息子から電話があった。もう息子も二人の子どもの父親だ。息子は、今年はどこの山にする?と聞く。去年は息子と二人で登った。今年もどこか山に行こうというわけだ。去年は久しぶりの北アルプスで、我が家から朝晩見る常念岳だった。息子の誘いがなければ登ることはなかった。不整脈などの体調と体力的にもうひとつ自信がなかった。息子の誘いで登った5年前の穂高の涸沢につづく常念岳、息子の誘いとサポートで登れた。最後の急登は青息吐息で、牛歩になった。青年のころ、奥穂高岳から涸沢カール下部まで岩稜を走って下り記録をとった「かもしか男」も衰えた。
 今年は蝶ヶ岳にする? 燕岳? それとも白馬?
 そうだなあ、お花畑がきれいだという蝶にするかねえ。
 ほかの山は全部登っているけれど蝶ヶ岳はこれまで登山の対象にしてこなかった。でも今の体力ならここがよさそうだ。
 二人の息子が幼児のころ、春の北八ヶ岳に登ったことがあった。雪が積もっていた。小学生のころ赤岳に登った。そして上の息子を連れて燕岳から常念に縦走した。

 今年も行くことにした。去年は苦しかった。今年はもう少し楽に登りたい。それができるには脚と心臓を鍛えておかなければ。
 今朝はランと、烏川渓谷まで歩くことにした。
 去年の8月に新しい布製のミヅノの運動靴にはきかえて、毎朝歩いてきた。一年間はこの靴で歩こうと思っていた。それが数ヶ月前、右足の外反母趾の当たるところで靴が破れた。破れたまま履いていたら破れがひどくなった。こうなったら大概の人は燃えるゴミにする。ぼくはしない。別の布で継ぎ当てをしようと考えた。厚手の布を家内に出してもらって布用のボンドで内からと外からくっつけた。やってみたらうまくいった。まだ二ヶ月ほどは履けると見た。
 その靴で今朝は一時間半歩いた。5時半から歩いたが、6時半ごろから日差しがきつくなった。汗が噴き出る。もう少し早い時間から歩くべし。やはり日陰を作るウォーキング道がないのがこたえる。
 市民の生活の場に、日陰をつくる林の道や並木の道がない。インフラ整備の考え方に生活樹林と並木が位置づいていない。決定的な行政の欠落だ。言い続けてきたが、この声は行政にも市民にもとどかない。市民の中にその考えがない。それは歩く生活がない、歩く文化が育っていないからだと思う。
 ニュースが、「熱中症に注意してください」と言っている。外へ出るなということですな。「エアコン」を有効に使ってください、と言っている。我が家にはエアコンはありません。
 大いに外に出て、木陰に憩い、木の下風に吹かれよう、木陰でおしゃべりしよう、という文化をつくりたい。
 それも新たな民主主義の道。