型破りの子ども

 生徒の中には、いろんな型破りがいる。型破りの子はおもしろいし楽しい。ぼくは「60年安保」の年からつづけて今も教育の現場の端っこにぶらさがっており、長い教職生活の中でいろんな子に出会った。
 青年教師だったころから、型破りという視点で生徒を見ていくと、こんな型破りがいた。

 最初に赴任した学校では、創部に反対する校長を説得して登山部をつくった。その部員の中に、家が牧場の時実君がいた。登山部は近畿の主な山々を登り、大台、大峰の山群から木曽の御岳、伯耆大山まで登った。牛飼いの息子、時実君は体力抜群で、背負うキスリングザックはスーパー特大のものだった。中学を卒業してすぐに、高校に入学したばかりの部員5人を連れて北アルプスの雪山にチャレンジした。吹雪の中、雪洞を掘ってそこに泊まり、唐松岳に登頂した。彼の食欲は大したもので、茶碗に6杯飯を食った。コッテ牛のような時実は、還暦過ぎてガンになり、逝ってしまった。

 アットンはクラスの中でいちばん小柄な子だった。中学に入学してきたアットンと校庭で雑談していると、
「ぼくは小学校のときに、三木清の『哲学入門』を読みました」
とか言う。本の名前は思い出せないのだが、大人もあまり読まない本を読んでいることも知った。この子は相当賢い子だな、と思ったが、いたって素朴で学習意欲旺盛、発言の挙手はクラスで王者だった。将棋が得意で大人の有段者と勝負して勝ったとか言うから、それなら勝負をと、年輩の教師で将棋の強いK先生が挑戦、宿直室で対決をした。勝負の結末は覚えていない。

 落語好きの森村君は、声がハスキーで、ひょうきん者だった。落語が好きで、なかなか上手だと聞いたから、学級活動のとき落語をやってもらうことにした。宿直室から座布団を借りてきて教卓の上に置き、そこを高座にして森村落語独演会。座布団に正座した彼は、黒板を背にして、身振り手振り表情豊かに落語の一席を演じきった。クラスのみんなはやんやの喝采だった。

 漫画で有名になった里中さん、彼女は他の女の子の中でも体は大きく、ませていた。彼女が3年生だったとき、校舎の三階から屋上に上がる、ふだんは生徒も来ないところで、ワンパク男子3人に催眠術をかけたことがあった。催眠術にかかった3人は、まばたきしない。目から涙がすーっと尾を引いて流れている。初めて見る催眠術のあまりに異様な雰囲気に驚き、ぼくはしばらくものが言えなかった。ほかの教師たちもやってきて、彼女は叱られ、催眠術は即刻禁止になったけれど、催眠術は本を読んで方法を知ったのだと言った。彼女は「やれるものならやってみろ」と言ったヤンチャクレに本当にかけてしまった。すでに普通の中学生を超えるものをもっていた。

 美術の教師がいなくなった年があった。国語と美術の免許を取得していたぼくは、その年、美術の授業をもった。ぼくはその授業をすべて独自に企画した。それでやったのが人形劇の創作、この授業に半年間をかけた。人形作り、ストーリーの制作、演出、すべて生徒たちに任せた。学年8クラス、授業時間は生徒の自主的な創作を見守る。それぞれの人形劇が完成し、いよいよ学年全体での人形劇発表会になった。大教室に生徒たちは集まり、劇が始まる。つぎつぎおもしろい発表があったなかでひときわ傑作があった。それには目を見張った。演目は、ビートルズの公演である。ビートルズ四人の人形が楽器を抱え、ビートルズの曲に合わせて演奏する。この傑出した人形劇にぼくは舌を巻いた。日ごろのヤンチャクレのビートルズファンがこの創作を可能にした。生徒のもっている力は、教師を超える、とつくづく感嘆したものだった。

 次に転勤した学校は「教育困難校」とささやかれる学校だったが、そこでもおもしろい子どもたちに出会った。昆虫少年だった田島君は登山部員だった。山に入ると、彼の関心は昆虫、昆虫の中でも甲虫が彼の研究対象だった。山道で、またキャンプサイトで、虫を探す。甲虫を見つけると捕まえて観察する。ぼくもまた甲虫をつかまえて田島に質問をする。彼はすかさず返答する。ぼくの昆虫への興味関心は彼の存在によってかきたてられた。

 1339年という昔に書かれた「神皇正統記」(北畠親房著)を読んでいる男生徒がいた。「神皇正統記」は神代から後村上天皇までの歴史を記した国体論である。彼は右翼的な考えに賛同し、そこから日本の歴史をとらえようとした。議論をすると、彼は彼なりに学んだ知識をとうとうと話した。

 転勤四校目に、型破りのツッパリがいた。教師への反抗や授業のエスケープ、そして他校の番長との抗争に暴走、それらは突出していた。彼は小学校のときから、いたずらしては教師に叱られ、自分がやってもいないことで疑われたことから徹底して反抗した。中学校に入学して1年の担任は女性教師、小学校のときの担任が女性だったことから、叱られるたびに反抗を繰り返すようになった。2年3年はぼくが担任になった。彼の仲間は10人で、他校の番長との抗争は10人で出向いた。3年のとき、彼は学級委員長に立候補して、委員長になった。この委員長は学ランを着て、頭をそりあげて登校した。クラスの女の子の父親が病気で亡くなり、父子家庭だった彼女は一人ぼっちになった。葬儀にシンジもクラスの代表として参列した。相変わらず頭はそり上げ、ひざまでの学生服を着て、衆目に自己をさらして彼は焼香をした。その姿はPTAの役員の顰蹙を買った。今彼は飲み屋のオヤジになって、まじめに店をやっている。ぼくが引っ越す時手伝いにも来てくれ、大阪へ行ったとき彼の家に泊めてももらった。

 型破りの子ら、まだまだたくさんいた。