生き残って教師となった特攻隊員


「福島の田舎の教師となり、宿直室に寝泊りする生活を重ねて、ある年、わたしは十万ページの本を読みきる。戦争が作った青春の空白を、そうすれば埋めることができるかと思って、本にしがみついていたのだった。手当たり次第に読みとばし、そのときはバイブルまで読んだのだった。でも、なぜか源後先生に勝ったという実感はなかった。
その源後先生は、いまはない。そしてわたしは、先生がなくなったときの年齢に近づいたいまのわが身に、はたしてなにができるのかを、ひそかに問いながら生きているのである。」
と書いたのは、遠藤豊吉だった。遠藤豊吉もいまはもういない。
 遠藤豊吉は、福島師範学校を出て、1944年に学徒動員によって召集され、特別攻撃隊員になった。1945年敗戦、遠藤は出撃をまぬかれ、故郷の福島に帰って教師になった。遠藤の言う源後先生は師範学校の教師であったが、遠藤に人生の教師としての姿を教えた。遠藤は次のように書いている。
 「源後先生は小学校しか出ておらず、独学で教員免許状をとり、三十代の若さで師範学校教師の資格を獲得した人だった。
戦争末期、沈うつな気分の漂う教室のなかで、淡々と近世文学を講ずる先生の姿は、わたしにとって非常に魅力的だった。五尺そこそこの小柄な体であったが、芭蕉を語り、西鶴を論じるときの先生は、仁王のように大きく見えた。
 『師範学校を無事出たというだけで教師になれると思ったら、大まちがいだ。当然そうなるコースをとおってそうなったというだけで、人間は尊敬されるものではない。ぼくが君たちを教師として尊敬することがあるとすれば、それは、教壇に立って、一年にたった一つでもいい、教室の子どもたち一人ひとりの胸に、生涯忘れることのできない言葉を刻みつける仕事をやったときだ』
 学徒兵として入隊する日が間近に迫ったある日、暗い教室で先生はそんなことをわたしたちにむかってつぶやいた。どうせ死ぬ身には無縁と思われる言葉であったが、ふしぎに胸に突き刺さった。
 また、先生はこんなことも言った。
 『ぼくは、一年間に本を五万ページ読んだことがある。これはぼくの最高記録だが、一年五万ページずつ読む作業をつづけたとしても、人間、一生かけて読む本の冊数は知れたものだ』
 わたしは戦争末期、特別攻撃隊員として精神と肉体をひどく消耗させねばならぬ日々を送るのであるが、この言葉は色あせずに胸に残った。」
 学徒兵たちは次々と出撃し、還らぬ人となったが、遠藤は幸いに敗戦によって命を得た。それから後、教師となった遠藤豊吉は、日本の多くの教師たちの心に感銘を与え、その実践は教師たちのなかに生きた。遠藤は敗戦の日のことを書いている。
 「戦争が終わった日、わたしは基地のそばを流れる荒川の土手に寝転んでいた。夏草が茂り、爆音の聞こえなくなった空は、ぬけるように青かった。
 わたしたち若い特攻隊員に、国ために死ぬことは美しいと、涙を流さんばかりにして語った上官の何人かは、倉庫から食料や衣料品を盗み出して逃亡していた。
 この日が来るまで、特攻隊員として、死につづく道だけをお前が生きる道なのだと教えられ、みずからもそう納得してきたわたしに、突然、同じおカミから、こんどは生きる道求めよという声が響いてきて、わたしは動顛していたのだった。倉庫のものをかすめとっていくあの人たちにとって、死とは何だったのだろう。死んでその恩に報いなければならない国とは、いったい何だったのだろう。わたしは混乱のおさまらない頭のなかで、そのことだけを考えていた。
 時間が流れ、夕焼けが西の空を茜色に焼いていた。他の人が、いかにもほんとうらしくささやく死の観念に同調することのかなしさ、みじめさが、じょじょにわかってくるようだった。広い空のなかで、真っ白い雲を血に染めて死ぬことの美しさにおのれの生涯を思いえがいたことが、かなしくみじめな幻想に過ぎなかった。それが見えてきたとき、わたしは、とにかく、生きなければならないのだ、とにかく、生きなければならないのだと、思ったのだった。」