栗の実


 有賀さんから、庭の栗の実が落ち始めたので取りにおいでと電話をいただいた。以前から声をかけてもらっていたので、二つ返事で自転車に乗って、手袋と火ばさみをたずさえ、有賀さんの家に行った。有賀さんは仕事で出かけてしまい、奥さんもこれから出かけるとかで、どうぞ勝手に拾っていってと、奥さんに案内してもらった栗の木の下で、ぼくは一人栗を拾った。見上げると大きな二本の栗の木は枝を空いっぱいに広げ、まだ緑色の実がいがのままたくさん成っている。木の下をぐるぐる回る。はじけて飛び出した実、茶色くなったいがの中に入ったままの実、手の届きそうな枝でいがが割れかかっている実、たくさんの実を火ばさみではさんで、袋に入れていった。ツヤツヤ光る茶色の実は、秋の野の宝物のようで、豊かなうれしい気持ちになる。
 栗を自転車のかごに入れて持って帰った。稲刈りを終えたばかりの巌さんがプレゼントしてくれた脱穀したての新米がある。家内はその新米で栗ご飯を炊いてくれた。なんともかんとも言いようがなくおいしい。普段はすることのない「おかわり」をした。
 こんなにたくさん、独り占めすることはできない。おすそ分けもした。そうだ、日本語教室にやってくるベトナム人の青年たちにもおすそ分けしようと思い、彼らは6人ぐらいいるなあ、もう少しほしいなあと、どあつかましくもまた有賀さんに電話して二回目をいただくことにした。有賀さんは快くOK、翌日、有賀さんの家に出かけるつもりでいたら、すでに収穫してあったのを奥さんが持ってきてくださった。恐縮恐縮。
 日曜日の夜の日本語教室では、一時間半勉強して、その後半時間お茶を飲みお菓子や果物を食べて団欒する。ベトナム実習生のハップ君とトウ君が自分たちでつくって持ってきたという春巻きは、なかなかおいしかった。二人の幼児を連れて日本語教室に来る中国人の奥さん、そしてベトナム実習生、日本人教師も栗をうれしそうに持って帰った。
 我が家では、栗ご飯のほかに、蒸し栗、渋皮煮にして食べた。この季節だけの喜びだ。

 今年は急速に秋が深まっている。庭のグリーンカーテンにしていたゴーヤも勢いが衰えてきた。それでもまだ蔓のあちこちに大きな実がなっている。とても食べきれない。ゴーヤが大好きなベトナム実習生にもっていってやろうと10個余り、腕を伸ばしても取れない高いところの実は高枝切りで取って、もう彼らは仕事を終えて寮に帰っているだろうと、6時半に野道を車で持っていった。
 「ゴーヤもってきたよー」
 「はーい、いま、ごはんつくっている」
 「これからご飯だね」
 玄関に袋に入った米、30キロ入りが置いてある。
 「米、買ったの?」
 「インターネットでかった」
 「へえ、いくらだった」
 「6200円、やすいよ」
 「ふーん、そうかあ」
 「みず、のみますか」
 「いや、いらない」
 「ごはん、いっしょにたべませんか」
 「いや、家に帰って食べるよ」
 「寒くなってきたね」
 「はい、さむいね」

 彼らがこの夏くれたベトナムの野菜の種がある。まだ種を播いていない。袋の表に野菜の写真があり、小松菜に似ているように思う。袋の説明はベトナム語で書いてある。何と言う野菜なのか、播く時期はいつなのか、よく分からない。でも、せっかく彼らがくれたのだから、播いて育てて、彼らに食べてもらおうと思う。
 今日、その種を播く畝たてをし、発酵鶏糞と苦土石灰を土に入れた。しばらく日をおいてから種を播こう。