古き友

 マルちゃんから昨年、思いもかけず便りがあり、彼女は51年前の中学校の音楽の先生ハギさん、すなわちぼくの同僚だったハギさんの今を知らせてくれた。ハギさんは癌をわずらって入院している、手紙からはぜひそれをぼくに伝えねばならないという心づかいが感じられた。手紙を読んで、一度連絡を取らねばとその時は思った。ところが少しためらうものがあり、ハギさんの入院している病院名の書いた便箋をそのまま机の上の印刷物の中にもぐりこませてしまって最近に至った。
 半月ほど前、机の間から顔をのぞかせた手紙の追伸に書かれたマルちゃんの筆跡を見た。50年前から変わらないしっかりした丁寧な文字がハギさんの住所を示している。筆跡は、こんなに日にちがたったら、ハギさんは生きているかどうか分かりませんよと言っているように思えた。
 スマン、返事書こう。そうして、あのころの思い出、その後の自分の遍歴などを書いて送った。ハギさんとぼくは同年齢だった。二人とも新任で淀川中学校に赴任した。
 ぼくは手紙に、台風の日のことを書いた。台風が来るから生徒は一時限が終わると全員下校となり、教師も午後帰宅となったのだが、ハギさんとぼくは天満の商店街にある喫茶店に入って長いことおしゃべりをした。話題は全部生徒のこと教育のことだった。夕方近く、外は雨風が強くなっていた。それでやっと店を出た。
 当時同学年の教師たちは、勤務が終わって帰宅する途中、よく飲み屋に入って一杯やったり、喫茶店に入ったりしたが、そこではいつも生徒のこと教育のことが論議になった。
 その台風の日の思い出をハギさんへの手紙に書いた。書きながら思いは沈潜して、お互いに穏やかに静かに余生を生きようではないかという諦念の思いをつづった。

 数日して、返事が来た。
 「いきなり突然でびっくり、そして大喜びです。久しぶりの字を拝見し、なつかしいかぎりです。古い友だちって、ありがたいですね。」
 大喜びしてくれたのかあ、よかったあ、と思う。彼はぼくの筆跡をおぼえていた。ぼくも彼の筆跡をおぼえていた。マルちゃんの筆跡をおぼえていた。50年も前の記憶だ。
 同じ時代を、同じ学校で6年間働いて、体験を共有もしたが、頭に残る記憶には違いがある。ハギさんの書いてきたことはぼくの記憶にない。
 「あの時代、教育の何たるかも知らぬ、単に偉そうにしていた私だったように思います」「あなたから何回も注意を受けましたね」
 ぼくは、注意をしたという記憶は頭に残っていない。偉そうに言っていたというのはぼくも同じだった。その記憶は残っている。
 「北新地で、どんなわけか寿司屋に入り、ここは高いからあんまり食べるなと言われたことを思い出します」
 へえー、そんなことがあったかなあ。台風の日の喫茶店のことはハギさんの記憶に残らず、北新地の寿司屋のことはぼくの記憶に残っていない。それがおもしろい。
 彼は癌をわずらった。喉の癌で、声帯をとってしまった。だから、会話はまったくできなくなっていた。電話をかけようかと思ったが、ひょっとして話せないかもと思って手紙にして正解だった。
 「家人にはもう終わりかもと思われたそうです。無為な毎日ほどつらいことはありませんね」
 彼は何度も入院していた。病院は、昔ぼくの住んでいた近くにある。教え子マルちゃんはよく励ましてくれたとハギさんは書いていた。
 人生の終盤にこうして励ましを送ってくれる人がいることは幸せなことだ。
 人生を振り返ればと、ハギさんは悔悟の気持ちを書いていた。それは誰しも思うところだ。誰でも悔悟の気持ちがあるが、この道を歩んできた。喜びも誇りも感じる。一回きりの一本の道。
 癌は転移しており、抗癌剤を使っているという。食べ物を飲み込むのが困難で、一回の食事に2時間がかかるという。つらいだろう、苦しいだろう。ハギさんは、「歩くのも食べるのも苦しい」と書く。
 「それでも月に2回、地元の合唱団の指導に行くのが楽しみです。」
 ああ、この苦しみの中にこの楽しみがある。それを続けるのがいい。ハギさんは昔コントラバスを演奏していた。声を失っても耳は聞こえる、音楽の道がある。

 一通の手紙、送ってよかった。返事もらってよかった。教員時代の30代、40代の血気盛んなときは、ぼくはぼくの道を行き、彼と心は離れて若い時のような友情は薄れていた。でも今、また20代の自由な時の、古き友がよみがえってきた。