生徒の相談には誠実に応えよ

「先生、父が胃ガンです。」
卒業生M君から、電話があった。高校生の彼はどうしていいのか分からず、悩んでかけてきた電話だった。
ぼくは20代の独身教師、ターミナルで落ち合って、さてどうしようかと考えた。
今なら喫茶店にでも入って話を聴いただろうが、そのときは彼の深刻さとこちらの想いとの差が大きいことに気づかなかったから、バーで少し飲んで話を聞こう、と店に入った。
ぼくは、ガンに対する認識が乏しかった。医学的知識もあまり持ち合わせていなかった。
彼の話を聴きながら、どう答えたらいいのか、どうアドバイスしていいのか分からない。
彼と別れるとき、何一つ力になる言葉も与えられなかったという記憶が残っている。
彼の心の持ちようについて悩みについて、適切な話のできなかった自分だったという悔いである。


短大へ行くべきか、就職すべきか、手紙で受けたその相談も、考え込んで答えに窮し、返事の機を逃してしまったことがあった。
これも20代のときの、きりきり痛む自責の記憶。
詩人になりたくて東京へひとりで出た女の子が、ホッチキスで止めた手作りの小さな詩集を同封し、
批評して欲しい、と書いてきたことがあった。
読みながら、批評の難しさに気づかされ、これも返事の機を逃し、結局「無視」同然の行為をしてしまった。


電話や手紙、直接会う、生活ノートに書いてくる、生徒の相談は、いろんな形をとって寄せられる。
100の相談のうち、ほとんどの相談には誠意を持って応えようとしてきたと自分だと思っている。
しかし結果として「無視」してしまったものがある。
気づかずに「無視」していたことが案外たくさんあったように思う。


相談をしてこないで、あきらめて孤独に、自分の結論を出していった子らがいたという事実。
自死をした卒業生がいた。
過労死をしてしまった卒業生もいた。
相談という行為に出る子は、一部に過ぎない。


エスでもノーでも、イエス・ノーでなく返答の具体的内容に窮しても、質問、相談にはまずは応えよ、「答える」ではなく「応えよ」、
それが生徒や卒業生に対する、踏み外してはならない基本的な態度ではないか。
人間や人生や社会に対する考え方の未熟な青年教師の時代はなおさら、
教師には、適切なアドバイスができそうにない問いにぶつかることがある。
そのことに関する経験がなく、知識や思想がなく、考え方、生き方についての思索が乏しい教師であれば、
答えるのは難しい。
「正しく答えねばならない」と考えると無理がいく。
「答えねばならない」と考えるから応えられなくなる。


かつて自分のクラスの場合は、生徒たちとのコミュニケーションは会話と生活ノートだった。
ホンネは生活ノートによく現れた。
生活ノートは生徒の日記であり、手紙であり、教師と生徒との交換ノートだった。


相手の心を聴く。
想いを受ける。
そして自分はこう思う、と応える。
よく分からなかったら、よく分からない、と応える。
そして、一緒に考える。
信頼して相談してきた彼らの思いに応える。


無視、それはどれほど悲しいことか。
どれほどみじめなことか。
意図的な無視、
無意識の無視、
無視は無視、
教師は、生徒を無視するな!