ロマン・ロラン「苦悩の英雄 ベートーヴェンの生涯」

 1960年、ハギさんとぼくとが赴任した淀川中学校は新設校で、校舎建設は未完成、講堂・体育館はなかった。3年の月日がたって卒業式を迎えた。ハギさんとぼくらは、初めて卒業生を送り出す。その式は、運動場に椅子を並べた青空卒業式だった。式は今も心に残る。卒業生入場のとき式場の校庭に流れた曲は、ベートーヴェンの「田園」シンフォニーだった。卒業証書授与の間も「田園」は鳴り響いた。3月の風はまだ肌寒く、空は青く澄んでいる。紅白の幔幕が式場を取り囲んでいた。あのときの透明感と、生徒たちの眼差し、「田園」は心に深くしみ、忘れることのできない感銘を心に刻んだ。
 「田園」を卒業式のテーマ曲にしたのはハギさんだった。
 それから長い年月がたち、ハギさんもぼくも還暦をすぎたころ、あの時の卒業生が同窓会を開いてくれた。教職を退いていたハギさんは、今ベートーヴェンの「第九シンフォニー」の演奏に加わっていると言った。
 先日、ハギさんに手紙を出し、ハギさんから返事をもらってから、ぼくの想いはヘッセとロマン・ロランへ、聴力を失ったベートーヴェンの苦悩へと流れていった。

 ヘッセと親交のあったロマン・ロランは「苦悩の英雄 ベートーヴェンの生涯」(1903)を著していた。
 「ベートーヴェン私の少年時代からの親しい友であり、人生のたたかいの中で、一度ならず私を支えてくれた。」
 ベートーヴェンは1770年、ドイツのボンで生まれた。貧しい家のみすぼらしい屋根裏部屋、少年時代は家庭的な優しさのない暮らしだった。
 ベートーヴェンの父はアルコール依存症テノール歌手で、彼は息子の音楽才能を引き出し、それを利用しようと、暴力的な特訓をした。それがつらくて、ベートーヴェンはあやうく音楽が嫌いになるところだった。日々のパンをかせぐ貧しい暮らし、11歳でベートーヴェンは劇場のオーケストラの一員になり、13歳でオルガン弾きになった。17歳のとき、愛する母を亡くす。ベートーヴェンうつ病のような症状をもちながら一家を養うことになる。この時代の悲しみは、心に深い傷を残した。
 それからベートーヴェンはいくつかの愛情深い人間的出会いを得て育っていく。
ベートーヴェンの少年時代はつらく悲しいものではあったが、彼は終生その少年時代に対して、やさしい、メランコリックな思い出を抱いていた。彼は決してラインの谷間と、どうどうたる大河を忘れたことがなかった。
 「――霧に包まれたポプラ、茂みや柳、果樹などのある牧場は、気だるく水の上にただよっている――村や教会堂や墓場までがものうげな好奇心で、岸辺にかがみこんでいる――地平には青みがかった七つの峰が嵐を呼びそうに空にくっきり描き出し、それらの峰の頂きには、いくつかの古城の廃墟がやせ細った奇妙な影絵を浮き出させている。
 彼はこの土地に永久に愛情を持ち続けた。」

 1789年フランス革命が起こり、やがてナポレオンが登場、オーストリアプロイセン(ドイツ)が戦争に敗れる。彼の思想と音楽には、革命と戦争が大きな影を落とすことになった。
 ベートーヴェンはウィーンに住んで、音楽活動をしていた。
 ベートーヴェンの耳が聞こえなくなくなったのは45歳のころだった。それでも作曲をし、指揮を続けていたが、オーケストラ団員は混乱するばかりだった。悲しみと絶望が彼を襲った。
 1824年、交響曲第九を指揮した。聴衆の拍手は彼の耳に全然聞こえなかった。ベートーヴェンは自分の中に閉じこもり、一切の人から遠ざかった。慰めは自然のなかにしか見いだせなかった。

 「彼は自然によって生きているようだった。―― ベートーヴェンは、次のように書いている
 《だれも私ほど田園を愛することはできない‥‥私は人間以上に樹木を愛している‥‥》
 ――ウィーンでは毎日、城壁をひとまわりした。田園に出ると、朝から夜中まで、ただ一人で、帽子もかぶらず、太陽に照り付けられ、雨にぬれながら散歩した。
 《全能の神よ! 森の中では私は幸福です――ほんとに幸福です、森の中では――そこでは、一本一本の樹があなたの言葉で話しています。――神よ、なんというすばらしさでしょう!――森の中、丘の上にあるものは――それは静けさです――あなたにかしずくための静けさです》」

 ベートーヴェンは第九シンフォニーのなかに「歓喜」の合唱を入れた。それは多くの困難をともなう作曲だった。

 ロランが書く。
 「常に悲しみに苦しめられていた不幸な人間は、常に《歓喜》の素晴らしさを歌おうと渇望していた。だが、絶えず情熱の旋風と憂愁にとらわれては、その仕事を延ばしていた。生涯の最後にいたって、やっと彼はこの目的を果たすことができた。なんという偉大さをもってそれを果たしたことであろう。
 《歓喜》のテーマがはじめて現れようとする瞬間に、オーケストラは突然停止する。急な沈黙が来る。この沈黙が、歓喜の歌の登場に、神秘な神々しさを与える。‥‥《歓喜》は超自然的な静けさにおおわれながら、空からおりてくる。《歓喜》はその軽やかな息吹で苦悩を愛撫する。」


 1914年、第一次世界大戦が始まる前、ヘッセが発表した「おお、友よ、その調子をやめよ!」という意見文は、「戦争を賛美し、憎悪をかきたてる、その調子をやめよ」というものであった。それはベートーヴェンの第九シンフォニーの「合唱」の導入の詞である。ヘッセと立場を同じくする平和主義者ロマン・ロランはこれに共鳴した。
 シラーの詩をもとにしたという「合唱」の、冒頭の歌詞は、次のような文であった。

   おお、友よ、このような調べではない!
   もっと楽しい調べを歌おう、
   もっと歓喜にみちた調べを」