物乞いする人

 オーストリアの街を歩いても、田舎の村を散策しても、この国は豊かな国だなと思う。観光立国で豊かになってきたのだ。
 ところが、街の通りでしばしば物乞いをする人を見かける。昔は「乞食」という言葉を使っていたが、今はこの言葉を使うと抵抗感があるから、とりあえず「物乞いする人」としておく。
 通りに座って、容器を前に差し出してくる人や、入れ物を置いたままうつむいている人や、様々だ。日本では、ホームレスは多いが、物乞いする人は見かけない。それはなぜだろう。では貧困問題で日本よりオーストリアのほうが深刻なのかと思ってしまうが、一見して身なりもこざっぱりと整っていて、普通のおじさん、おばさん風の人もいる。40代ぐらいかなあと思える女性もいる。働けばどんな仕事でもやれそうな人だ。仕事がないのかなあ、仕事がないんだったらハローワークに行ったらどう?、なんて思う。中に何人か、犬を連れた人もいた。その犬もなんとかいう犬種だなと思えるのもいて、そこに座ってお金入れを置いていなかったら、そこいらの普通の街の人だと思ってしまう。また身体が不自由な人、乳飲み子を抱えている母親、毛布をかぶって寝ている人もいる。
 ヨーロッパはいくつもの国と国境を接している。オーストリアも国境の山を越えれば隣の国で、イタリヤ、スイス、ドイツ、チェコ、スロヴァキア、ハンガリースロヴェニアの七カ国が周りを取り囲んでいる。物乞いをする人は自国のみでなく、他の国から、はたまた遠くアフリカからも国境を越えてやって来る。
 貧困率で言えば、OECD加盟30ヶ国の中で、日本の貧困率はメキシコ、トルコ、アメリカに次いで高く、14.9%で、第4位にランクされている。ということは、日本のほうがオーストリアより、貧困率が高いのだ。
 この街の物乞いを見ていて、大道芸のパフォーマンスをしてお金を稼いでいる人に近いように感じた。大道芸のほうは芸を見てもらってなんぼかお金を帽子に入れてもらう、物乞いは何もしない。その点では違いは大きいが、道行く人からその人の自由意思でいくらかのお金をプレゼントしてもらうという点では近いものがある。だから物乞いの人は、「私は今仕事がない。当分食いつないでいくために、あなたからの恵みを」と小箱を差し出し、弱者への愛の行為を受けている。仏教で言うなら「功徳を施す・積む」という善行を相手にもたらしていることでもある。平たく見れば、「お互い様」。

 組織的な物乞いと、組織に属さない物乞いとがあるという。組織的なのは物乞い団をつくって、社員が街頭に座るわけだ。裏で手を引いている親分がお金儲けをしている。
 オーストリアの物乞いは、東欧やアフリカの貧困層で、国の生活保護はうけられない人たちであるようだ。

 ネットにこんな話が出ていた。


『30年間、マリアヒルファー通りで物乞いをしてきた老人が紹介された。老人は昔、会社を経営していたが、夫人と離婚して以来、事業は破綻した。ある日、途方に暮れて路上に立っていた。暑くなったので被っていた帽子をぬいだところ、1人の通行人がその帽子の中にお金を入れてくれたのが物乞い人生の始まりだったという。最近では常連客ができ、毎日お金を入れてくれる。1日平均30ユーロの収入があるという。』

 30ユーロというと、日本円にして約4300円。
 考えてみれば、日本のホームレスは、市民と日常的に接触し、人のぬくもりを贈られるということが少ない。ホームレス同士のつながりはあり、支援者の市民とは接触はあるが、日常の生活者の市民と接触することがない。置かれている位置は孤立と断絶である。