景観、環境の美

 チロルは美しい。この美しさはどうして生まれたのか。山や氷河、森、川、咲き乱れる草花など、自然そのものの美は、太古から変らずある。それに加えて存在する美がある。人間が営々とつくりあげてきた美である。
 村全体の家々が創出する調和の美がある。一軒一軒の家のたたずまいや暮らしから香るものがある。歴史を刻み、草花で飾る伝統的木造建築の美がある。人の心を解き放つ手入れされた牧草地の広がりがある。これらは自然と人工の調和のなかにある美だ。

 五カ町村が合併して安曇野市になる前から、豊科町オーストリアチロル地方の村、クラムザッハと姉妹都市の関係を結んでいた。それは安曇野市になってからも続いているようで、これまで何人になるのか、高校生たちがクラムザッハへでかけている。発端は安曇野で行われているいくつかのガラス工芸にあった。クラムザッハは人口5,000人、ガラス工芸の伝統ある村で、そこも美しいチロルである。
 姉妹都市のきっかけはガラス細工だとしても、チロルの村と友好のつながりを結ぶということは、単にガラス細工だけのことではなく、環境、景観、文化、建築、教育、生活、未来、生き方など多方面に広がっていくはずで、その地に生きる人間とこの地に生きる人間の魂の交流になるはずである。だが、安曇野に住んで9年になるが、それがさっぱり分からない。市の幹部は何回もチロルのその地を訪れている。では、それから何が生みだされたか。交流から学んで安曇野にどんなことが生かされたのか。市民の眼には少しも見えてこない。チロル交流は毎回観光で終わったのだろうか。
 8年前だったが、安曇野で環境・景観をテーマにしたシンポジウムが行われた。そのときパネラーだった人が、若いころに訪れた安曇野と今の安曇野との変化に驚いたということを述べておられたのが印象に残っている。こんなところではなかった、こんなひどい状態に変わっているとは思いもしなかった、彼の驚きは景観の劣化にあった。
 景観の劣化、景観の破壊、それは日本全体に進行してきたことで、安曇野もその一つである。
 ぼくの育った河内野には、もう「野」と呼べるところはない。「野」は滅びた。大人になってから移り住んだ大和は、薄田泣菫が詩「ああ大和にしあらましかば」で、

    「うは葉散り透く甘南備の森の小路を
    あかつき露に髪ぬれて、ゆきこそかよへ、斑鳩へ」

と詠った明治のころの姿はどこにもない。
 ホタルの飛んだ小川は埋め立てられ、野はびっしりと住宅でおおわれた。

 チロルの山の村を散策していると、背後に岩山を配した牧草地があり、車道と牧草地の間に歩く人のための小道がつくられていた。並木が植えられ、一本一本の木の下に何か書かれた小さなプレートが取り付けられていた。それはその樹木を提供してくれた人の名前と国名だった。アメリカの人の名前もあった。並木はいろんな国の人たちからの贈り物だった。間隔を開けて木のベンチが、山に向かって座れるように置かれていた。そこには「思索する道」と名がつけられていた。
 「京都の清水寺下にある哲学の小路のようだな」
 ぼくはつぶやいた。
 トラクターに似た牧草を刈る車が走ってきた。車は牧草地に入ると草を勢いよく刈っていく。刈られた草を熊手で集めている人がいた。トラックが草を満載して帰ってゆき、木造の納屋に貯蔵していた。円い塔のようなサイロはここにはなかった。
 宿には鶏が放し飼いされていた。一日、庭を歩き回ってついばんでいた。

 安曇野のどこにもある、あの色鮮やかな競うような看板やのぼりは、ヨーロッパ共通して全くない。電柱もほとんどない。自動販売機もない。標識も極端に少ない。
 景観、環境に対する共通した考え方が存在する。それは未来に向けてこの地方、この村をどんなところにしていくのかという、大衆・市民の蓄積してきた考えだ。観光客を招く、スキーや登山の客を増やそうとする、それはもちろんあってのことだろうが、自分の村への愛や誇りや未来社会への哲学を失ってしまってはこの環境は維持できない。
 人を呼ぶのは、自然の美であり、そこをつくってきた人の心だ。
 チロルを歩くと、安曇野への無言のアドバイスを聴き取ることができる。聴く心があるならば。そのアドバイスをどう活かすか、ここからが困難な仕事になるのだが。