集団的自衛権

 戦場へ向かう道。これまでその道には、憲法の柵が設けられ、ふさがれていた。その柵が開かれようとしている。道のかなたに砲煙の上がる戦場がある。戦争の泥沼がある。
 今、与党内で自民と公明が論議している。自民が押している。国の形の変わる大きな転換に向けて。
 「国民の命や安全が守られなくてもよいのか」と、目先の情況から現実的危機が叫ばれると、国民はあおられて危機に備えようという気にもなる。「その気になる」、それが人類の歴史の大転換のきっかけだったと、今西錦司は、人類の祖先はなぜ二本足で歩いたのかの問いに答え、「その気になったからだ」と言った。
 危機を防がねばならないと思う。そのために戦闘に参加しなければならない気になる。国民もまたその気になる。そして戦争のるつぼにはまりこんでいき、平和への最善の道を失う。
 信頼される国、尊敬される国、期待され安心を生む国は、頑固なまでに絶対的平和を追求し、対話外交に徹する。憲法九条を掲げる国はそういう国だった。
 今日、二つの論を読んだ。要約する。

 憲法学者の木村草太氏。
 「登山にたとえると、政府は『あの山(集団的自衛権の行使)にこの崖(解釈改憲)から登ろう』と言っている。憲法学者として、この崖からは登れないと指摘する。
 国家は、憲法で禁止された行動ができないだけでなく、憲法に根拠規定がない行動もできない。
 従来の政府は、国民の生命や幸福の権利を尊重する憲法13条を根拠に、個別的自衛権は許容してきた。しかし集団的自衛権を基礎づける文言は、憲法上にない。集団的自衛権の行使の結果、政府が訴えられれば、巨額の賠償責任を負う可能性がある。
 情勢が緊迫しているから憲法を無視してもいいと開き直るのは、自ら違憲と認める自白に等しい。国内の憲法を無視すると、国際法もないがしろにすると見られ、外交上もリスクが高い。国際社会で信用されない。
 本気で集団的自衛権が必要だと考えるなら、真正面から憲法改正を提案するしかない。」
 
 作家の池澤夏樹氏。
日本国憲法第九条には『国の交戦権はこれを認めない』という文言がある。交戦自由のアメリカの軍隊と交戦権を持たない日本の自衛隊が同じ立場で肩を並べて戦えるものだろうか? その場合、憲法は停止状態ということになる。これは国家乗っ取り、すなわちクーデターと同じではないか。
 危険を伴う職に就く人は危険を承知している。全国で十六万人ほどいる消防士は毎年数名が殉職している。我々の社会はこれを受け入れている。自衛隊の場合もその範囲に入るのかもしれない。
 1950年に自衛隊の前身である警察予備隊ができてから2013年までの自衛隊員の殉職者数は合計で1840名。年平均で29名弱。全自衛隊員の数は25万強だから、消防士よりはだいぶ危険率が高い。それでも我々はこの危険率を受け入れている。
 東日本大震災での自衛隊員の殉職は2名と伝えられる。あの時期の自衛隊の活躍は目を見張るものがあった。一方で、消防士ではなく消防団員が254名亡くなっている。彼らは自分の安全は二の次にして、住民の避難を促した。
 福島第一原子力発電所で吉田所長が「高線量の場所から一時退避し、すぐ現場に戻れる第一原発構内での待機」を命じたにもかかわらず、所員の九割は約十キロ離れた第二原発に行ってしまったという。なんとしてでも対策を講じなければ本州の何割かは人が住めないところになっていた。対策ができるのは現場の人々だけだった。だが彼らにすればまず自分の身の安全と考える。彼らはそれほどの危険を伴う仕事だとは知らされていなかった。危険率を隠していたのはいわゆる原子力村の安全神話である。彼らは目を背けて危険はないことにしていた。
 国家には国民を死地に派遣する権限があるのだろうか? 非常に危険率が高いとわかっているところへ送り込むことができるのだろうか? それが自衛のためだと言うならば、国の生存権と個人の生存権の関係についてはもっと議論が要る。
 今の自衛隊員は憲法第九条があることを前提にこの特殊な職に就いたはずである。自衛のための出動はあるが、他国での戦闘はないと信じて応募した。
 だとしたら彼らには次の安定した職を保証された上での転職の権利がある。そんなつもりではなかったと言う権利がある。戦場には殺される危険と同時に殺さなければならない危険もある。その心の傷はとても深い。あなたは見ず知らずの人間を殺せるか?
 イラクに派遣された自衛隊は一人も死なず、(たぶん)一人も殺さずに戻った。憲法第九条が彼らを守った。
 それでも帰還隊員のうちの25名が自殺したという報道がある。戦場の緊張の後遺症が疑われる。
 聞くところによると、集団的自衛権を熱心に推しているのは外務省で、防衛省は消極的なのだという。戦争になっても外交官は血を流さない。」