悲しい出来事

 安曇野を流れる開削水路は、この地では堰と呼ばれている。何何堰と名前がついた堰がいくつかある。その中でも拾ケ堰は安曇野の堰の中でも最大規模だ。
 昨日、ゴミステーションに行く道で出会ったMさんが、
 「K子さんが、拾ケ堰に落ちて流され死んだだよ」
という。とても信じられない驚きのニュースだ。村の合唱団で一緒に歌ってきた、じつに快活でユーモアあふれる人だった。K子さんと会話するのは楽しかった。
 Mさんと一緒にゴミステーションに着くと、そこにいた数人にその情報が伝えられた。
 「拾ケ堰じゃ、毎年2人は落ちて死ぬ」
と一人の男性が言った。
 拾ケ堰は江戸時代後期の文化13年(1816)に開削された。水路の延長は15キロメートルに及ぶ。ほぼ標高570メートルの等高線に沿って蛇行しながら、高低差5メートルほどのゆるい傾斜で安曇野の中央部を貫いて流れる。勾配15000分の5、約分して3000分の1。市のホームページの紹介文では、
 「開削は、10カ村の農村の指導者によって立案され、工事は延べ6万人以上の農民が参加し、約3カ月の短期間に工事を終えるという、驚異的な事業だった。現在は、約1,000ヘクタールが灌漑(かんがい)され、安曇野の今日を築いた文化遺産である。また、農林水産省の疎水百選にも選ばれている。」
と記されている。たくさんの堰は、安曇野の農業を画期的に進歩させた。
 昔の拾ケ堰は岸辺に草も生え、堤から流れに入って、夏は子どもたちが泳いで遊んだ。しかしその後、側壁と川底の3面はコンクリートで固められ、安全対策がとられた。道路に沿ってフェンスがつくられ、立ち入り禁止になった。両岸は垂直のコンクリート壁、今の時季、水路は満々と水をたたえて流れていく。人間の背丈の立たない深さだ。
 なにがどうしてそういうことが起こったのか。K子さんははるか下流まで流されていたと言う。痛ましいニュースに心が沈んだ。
 今朝、公民館の掃除の日で、ぼくの隣組は当番組だったから出かけた。そこで巌さんに会った。巌さんもコーラス仲間だ。
 「どういうことでK子さんが落ちたのか、よく分からんじゃ。朝から出ていって帰ってこないからと家族から夕方、行方不明の連絡が警察にあって、消防団が探して翌朝発見されたそうだで」
 認知症で行方不明になる人の情報が、防災無線の放送で時々入る。しかし、K子さんはいたって元気で、しゃきしゃきしていた。認知症とは縁がない。意見を言うときの声は大きく、はっきり臆せずにものを言った。
 「今の時季、満水の拾ケ堰に落ちれば、助からんじゃ。手で岸のどこかをつかもうとしても何も手をかけるところがない。コンクリートの壁からはい上がることができん。昔は草をつかんで岸に上がることもできたが、いまの堰では助からん」
 巌さんは、無念そうにそう言った。
 「私のかあちゃん、K子さんと親しかったから、パニックになってる」
 この衝撃は大きく悲しみは深い。
 葬儀が数日後に行なわれる。
 K子さんの冥福を祈り、K子さんを偲んで、次のコーラスの練習日に、みんなで歌おう。あの「千の風になって」などを。
1