みんなが元気になる日本語教室

 安曇野市内の4箇所の公民館で、外国人のための日本語教室が行なわれている。学習者はいっさい無料、指導者はボランティアである。主催する教育委員会の社会教育課からの依頼で、指導者に応募してきた人たちへの講習会の講師を引き受けてから、ずいぶん考えた。どんな内容の講習にしていったらいいだろうか。これまでの体験と研究をもとに考え、資料を整理し、レジュメをつくった。昨夜はその第一回目だった。
 準備してきたこの2週間、そのことを考えていると、おもしろいことにやっぱり内容が変化し、深まっていった。何よりも興味深かったのは、目的とするものは何か、と講習内容を創っていく過程での思考の変化だった。
 日本語教師をやってみたいと考えている人たちは、教える技術を学び、身につけたいと思っていることだろう。教える内容も知りたいだろう。しかし、それに応える講習内容にするとしたら、ぼく一人ではできない。時間ももっと必要になる。
外国人学習者にとって、日本語教室はどんなところなんだろう。そして、日本人指導者にとって、日本語教室はどんなところなんだろう。
 ぼくはこう整理した。      
 外国人学習者にとっては、
・日本語を学べる。 ・楽しくて、心が解きほぐされる。 ・困っていること、分からないことの相談ができる。 ・友だちができる。 ・日本人指導者と親しくなれて、日本人、日本の文化、日本人の社会や生活を知る場になる。
 そして、日本人指導者にとっては、
・教える楽しさ、知るおもしろさ、役に立つことの充足感を得る。
・国際交流・友好の一つとなる。
・目の前に学習者の深い魂があり、背後に彼らの家族があり故郷がある。そして彼らの人生がある。私たちはそういう魂に接する。彼らに接する私たちもまた、自分の魂で彼らと交わる。
 レジュメにはこのように書いた。
 実際ボランティアとして指導している人たちは、昼間仕事をして、夜に教室に来る。また退職後の自分、あるいは高齢の自分を活かし、役に立ちたいと思ってやってくる。そういう人たちに、専門的な知識や技術を身につけることを期待することはできない。
 日本語教室は、日本語を学ぶところではあるが、一種のサロン的な性質を帯びるところでもある。家族的な団欒がそこにはある。学習者も指導者も元気になるところ、解放されるところとなるなら、それも大きな意味がある。
 そう考えたら、どんな講習をしたらいいのか。講習会にやってくる人は15人ほど、そうだ、と思った。その場を「楽しい日本語教室」にすることだ。希望する理想の日本語教室をその場に創りだす。難しい講義をする講習会ではない。そこをワークショップにする。全員で学習をつくるのだ。
 ぼくは、ゆっくり会話し、笑顔で接する、と心に決めて講習会に出かけた。
 講習が始まり、のっけに「まずちょっと練習」を入れた。
 「次の三つはどう違いますか。」
A 窓が開いている。
B 窓が開けてある。
C 窓を開けている。
 参加者に発表してもらう。いろいろ意見が出てきた。
 「ここにいるみんなは外国人だとして、その人たちに理解できるように教えてください。」
 すると、実際に教室の窓を開けて、ABCの三つを説明する人が出てきた。
 「Aは、あれ、窓が開いているよ。寒いから閉めよう。Bは、あ、窓が開けてある。暑いから誰か開けたんだな。Cは、わたしは今、窓を開けています」
 こうして、日本語のみで、表情、演技を使って教える直接法へと導入していった。
 「では次は、どちらがいいですか、生徒に教えてください。」

  A 母に時計をあげました。
  B 母に時計をやりました。
                      
  A 両親を温泉につれていってあげたい。
  B 両親を温泉につれていってやりたい。

 これについてもみんなで意見を出し合い、実際に外国人に教えることの難しさも味わうこととなった。学習者に日本語の説明は簡単には通じない。それなのに説明を一生懸命繰り返す人もいる。指導者は学習者の母語を話せない。共通の媒介語はもたない。そこで、次のような方法を使うこととなる。 
  直接法 <指導者の行動(表情、演技)と日本語によって理解させる。>
  イラスト、絵画、写真、実物を利用する。
  テキストと辞書を活用する。
  ロールプレイを行なう。

 実際にイラストを使う方法をやってみた。

 1時間半のワークショップが終わった。
 「分かっているはずの簡単な日本語なのに、よく分かっていなかったことが分かりました」
という参加者の言葉がよかった。
 一回目の講習は、まずまず楽しく元気に、参加者みんなで作ることができた。最後が大笑いになって、うれしかった。次はもっとみんなが親しくなって、心を開いて、わいわいと学習を創っていこう。