安曇野の人たち

 ぼくは大阪生まれの大阪育ち、大阪人の好きな「おっちゃん」「おばちゃん」という言葉になじんでいる。庶民的なこの言葉は、だれにでも使えて、気安さ、親近感がこもる。信州に来てもつい使う。
 チャコとチコのMおばちゃんに、一昨日のキジのことを報告した。朝の野道、チャコとチコのリードを手にしたMおばちゃんは、へえー、へえーと眉をしかめ、顔中に痛恨の波が打ち寄せた。
 「キツネは、わたしも最近見ただよ。いるだよ」
 二週間ほど前、キジの巣の存在を伝えたとき、おばちゃんは、二匹の犬を連れているからと言って、巣に近づくことを遠慮した。親鳥を刺激したくない。二匹のうちの兄貴分のチャコは豆シバ、弟分のチコはマルチーズで、チャコは好奇心が旺盛だ。結局、巣のあるあたりを遠くから見るだけで、実際に巣も鳥も眼にしなかった。そして期待したヒナの朗報はあてはずれ、悲劇的な結果を聞くことになった。
 一瞬暗くなったMおばちゃんだが、すぐに気持ちは切り替わり、今日のチャコの頑固な抵抗の話になった。南に向かう野道に入ったけれど、チャコは頑として抵抗して座り込みをした。おばちゃんは、会話に信州弁がぽんぽこ出る。
 「チャコは、頑固で困るで。決まったとこでしか、まらねえし」
と、おばちゃんが言った。「まらねえ」って、いったい何だ? 犬の散歩は、ウンチとオシッコがつきものだ。ウンチのことかな。
 ランも、散歩中にウンチをする。家の中ではほとんどウンチをしない。お腹の調子で、たまに夜中にウンチすることもあるが、ランは散歩の途中でするものと決めている。けれど、どこでするかはそのとき次第だ。出たとこ勝負、ウンチは新聞紙でつかみとって、手提げに入れて持ち帰る。ところがチャコの場合は、それが決まった場所だという。おばちゃんの言った「まらねえ」は、そのウンチに関係することだということは分かる。
「 『まらねえ』って、ウンチしないということ?」
 すると、おばちゃんは、ケラケラ笑って、
 「へえ、ウンチしないということ」
 ふうん、どういうことだろう。ぼくは考えた。「ねえ」というのは「ない」という言葉だ。「行かない」は「行かねえ」と言う。そうすると、「まらねえ」は「まらない」ということだ。「まら」の終止形は「まる」だな。ははあ、そういうことか。「まる」は「放る(まる)」、大小便をする、排泄するという古い言葉だ。記紀にも出てくる古語でもある。今も一般的なことばになっている「おまる」という道具は「お放る(おまる)」、すなわち、室内で持ち運びする便器のことである。それに「お」なんて丁寧語をつけた。どうして排泄行為の道具に「お」を付けるんだ、と不思議に思うことはない。今の病院で、小便を「お小水」と「お」を付けているではないか。「尻」にも「お」を付ける。日本人は丁寧な心遣いをする民族なんだ。
 それにしても、Mおばちゃんの言葉はおもしろい。あるとき、「おどけた、おどけた」と言うから、「ふざけた」ということかと思ったら、会話の脈絡からすれば「驚いた」ということだった。
 頑固なチャコとおばちゃんと別れて、アルプス公園に向かう。神社の手前で、カカシのおっちゃんの奥さんがフキを採っていた。「カカシのおっちゃん」というのは、我が家の夫婦間だけの言葉で、あちこちにカカシを立てる趣味があるHさんのこと。最近新たなところに赤いシャツを着たカカシがたっていた。たぶんおっちゃんのカカシだ。カカシのおっちゃんとは親しくよく話をする関係になっている。最近は行政トップのリーダー論を道端で交わした。おっちゃんの家の入り口に札がかかっており、「南側の家に居ります。家主」と書いてある。その文字を見たとき、これはてっきり宮沢賢治の真似だ、と思った。字体もそっくりだ。賢治は、羅須地人協会をはじめたとき、家の前の小黒板に「下の畑に居ります。 賢治」と書いた。
 「フキ、よく育っていますね」
 Hおばちゃんは、
 「少しもっていきます?」
と言って、鎌でバスバスと切って、葉っぱを取り、くるくると紐でしばって、
 「はい、今晩どうぞ」
 その手際よさに感心した。フキ畑の横にネギ畑がある。
 「ネギ坊主は切りとったほうがいいですねえ」
と訊くと、
 「そうですよ。うちでは、ネギ坊主をつぼみのときに採って、食べますよ」
 「えっ、食べる?」
 「はい、全部食べます」
 これは、新情報。おひたし、いためもの、説明してもらったが、よく分からなかった。一度やってみよう。さすが「カカシのおっちゃん」の奥さんだけある。おっちゃんは、救荒作物の芋「アビオス」を作っていて、食料がなくなってきたときのためにと説明を受けたことがある。このおっちゃんにして、このおばちゃんだ。ぼくは、ランのウンチの入っている手提げの中に、いただいたフキの束を入れた。ありがとうございます。