日本人のビジョン

 ぼくが青年だったころ、奈良県大和郡山市の市長が、城下町の市内中心部を車規制して、人力車を走らせるというビジョンを打ち出したことがあった。旧市街の昔の城下の雰囲気を現代に呼び戻そうという大胆な発想だった。大和郡山市内には伝統的な家屋、町並みも残っていて、道幅は昔のままに狭く、車社会には向かない街だった。ぼくはこのアイデアを聞いて、これが実現したらおもしろいことになるなあと、大いに賛成の意見だった。ぼくがそのころ暮らしていたのは大和郡山に近い信貴山麓の三郷町だったが、首長の抱く未来ビジョンの重要性を感じていたから、大和郡山市長の発想に注目した。人々は「車規制」と「人力車」という二点の「ことがら」を焦点化し、大和郡山市の商業関係者は猛反対を表明。車規制をされたら、商売は上がったりだというわけだ。しかしぼくは、もしこれが実現できたら、人間の暮らす街の理想は何かを追求していくきっかけになるぞと思った。開発と経済成長にひたすら走る日本のなかで、このことは人間性が尊重される街とはどんな街かを考えるきっかけになると考えた。しかし、アイデアはついえ、結果は元の木阿弥になった。
 中山道妻籠宿が、国の重要伝統的建造物群保存地区の最初の選定地の一つに選ばれたのは1976年だった。それが実現するまでには長い道のりがあった。住民たちは妻籠のビジョンを討論し、郷土が栄え、訪れる多くの人に愛される妻籠にしていくには江戸時代から続いてきた景観を保全することだと結論付けた。経済成長に伴い全国の伝統的な町並みが姿を消してゆく中、いち早く地域を挙げて景観保全活動に取り組んだ住民たちのビジョンは中山道妻籠宿の復元となり、宿場内は車が通れない。この成功は全国に大きな影響をもたらす。ぼくが初めて妻籠を訪れたのは1970年で、それから数え切れないほど妻籠に遊んだ。愛する民宿に泊まって。
 上高地のウェストン祭に深田久弥が初めて参加したのは1965年ごろだ。そのころは上高地まで車が自由に入っていた。祭は6月の第一日曜日だ。
 <河童橋からウェストンの碑までの道が、以前は快い散歩道だったのに、今度来てみると石ころが多くて歩き難く、しかも頻繁な自動車の往復を道端に避けなければならなかった。途中で出会った藤木久三さんもこの道には辟易されたとみえ、
 「自動車を通すなら、その脇に、別に散歩道をつくる必要があるね」とおっしゃった。
 「そうですよ、自動車のため、道に石を敷いたりするから、歩く者は苦労しますよ」と私も応じた。‥‥
 私たちが昔どおりのんびりした気持ちで、美しい風景を眺めながら田舎道を歩いてゆこうとするのに、その道はもう弾みのある快い土壌ではなく、割り石をぶちこまれて、タイヤには好適かもしれないが、人間の足には邪けんな道に変っている。しかも後ろから絶えず警笛におどかされ、道端にたって車をやり過ごすと、その返礼はもうもうたる砂ぼこりである。こんな大きな被害があろうか。上高地にまでその被害が及んできた。地元の人の説明によると、ウェストン碑のある梓川右岸の川べり道は、初めは自動車を通さない方針であったが、そのそばにある旅館業者から苦情が出たので通すことになったのだという。無言の大衆である歩行者こそいい迷惑である。>
 深田久弥は「瀟洒なる自然 ――わが山旅の記――」にこう書いて、自然保護の徒は一致協力して猛反対をすべきだと訴えていた。
 ビジョンなき首長、行政に今も嘆息が出る。
 ついでに上高地の年譜。
1928年(昭和4年)国の名勝および天然記念物に指定され、中ノ湯まで乗合バス運行
1933年(昭和8年)乗合バスを大正池まで延長。帝国ホテル開業
1934年(昭和9年中部山岳国立公園に指定される。上高地牧場閉鎖
1935年(昭和10年)乗合バスを河童橋まで延長。徳沢牧場閉鎖
1937年(昭和12年)ウェストン碑を建立
1947年(昭和22年)第1回ウェストン祭
1952年(昭和27年)国の特別名勝および特別天然記念物に指定される
1975年(昭和50年)7-8月のマイカー規制開始
1977年(昭和52年)大正池の浚渫を開始
1996年(平成8年)通年のマイカー規制開始
1997年(平成9年)安房トンネル開通
2004年(平成16年)7月-8月の観光バス規制開始
2005年(平成17年)新釜トンネル開通