歩く人のための小径が文化をつくる <3>

 「人の魂は、その幼い日に原型が刻まれてしまう」、小塩節のエッセイ「ザルツブルグの小径」を読んだ。エッセイはこの一文から始まる。 小塩節は元西ドイツ日本大使館公使も勤めたドイツ文学者であった。彼はモーツァルトと、モーツァルトが生まれ育ったザルツブルグをこよなく愛した。
 モーツァルトは幼いときからヨーロッパをくまなく旅し、ヨーロッパの音楽を摂取して自己形成をなした。モーツァルトザルツブルグでしか生まれ得ぬ天才であった。チロルアルプス、紺碧の空、人知が美しく結晶した街、ザルツブルグ
 小塩節はドイツに留学して、ザルツブルグに魅かれた。
 「私にとってモーツァルトへの道は、ザルツブルグの街と郊外のいくつかの小径と結びついて、なつかしさにたえないものである。ザルツブルグを遠く離れていても、いとおしさに胸がいっぱいになってしまういくつもの小径である。」
 ザルツブルグの森かげの小径、
 「遠くこの町を離れ、異郷を旅し、東京の雑踏を歩いていても、足もとにざくざくと黒砂利の鳴る小径は、夜の夢の中にも出てきて、この町への郷愁に私の胸を締め付ける。」
 小径を出ると、広大なバラ園が遠いかなたまで連なり、山の上に古城が市内を見下ろしている。宮殿の茂みにはモーツァルトが「魔笛」を作曲した小屋がある。人形劇場があり、モーツァルトが長く住んだ家がある。
 小塩節の愛するもう一つの道。
 「さんざしの生垣が道の左右にどこまでも続いている。赤や白のたくましい一重の花だ。かつてゲーテが、『野ばら』と歌ったのは、このさんざしの茂みだった。春から夏にかけて咲きつづけ、ザルツブルグ・フェスティバルの終わるころに咲き終る。その茂みの生垣に白樺の並木が重なっている。わけもなく意味もなく、私はこの道を何度も行き来する。やがて現れる森かげ、モース通りの終わり近くのひなびたモースレストランがいい。地もとのビールをまず一杯飲み干す。」
 小塩節が西ドイツに留学していた学生時代、寮にバッハ狂のドイツ人学生がいた。あまりに真面目に根をつめて勉強したのか、ある日突然、学業の挫折を訴えた。友人だった小塩節は一晩語り明かし、明け方にふと思いついてマイカーに友を乗せて旅に出た。1000キロ走って、ザルツブルグ近くまで来た。道端に、桃、チェリー、アンズ、リンゴ、梨など、ありとあらゆる果樹の花がいっせいに咲いていた。花は白銀の峰々をバックにして咲いている。
 ああ、信州の春と同じだ――、小塩節はつぶやく。
 信州で咲く花は、冷たい大気の中にきりりと明確な輪郭を見せて咲く。
 「それが信州であり、チロルなのだ。信濃路の遅い春より、さらに遅いチロル地方の五月を目におさめながら、ザルツブルグに近づいていく。」
 このとき、とつぜん小塩節は幼年モーツァルトの小曲を思い出す。そこから小塩は幼少時代、音楽への挫折などを思い起こし、その心の揺れから旅の方向をウイーンへと転換させた。友と二人ウイーンで遊んで心を整えた彼は、再びザルツブルグへ向かった。
 「ウイーンとザルツブルグでは、一杯のコーヒーを頼んでも、銀のお盆に真清水を入れたコップを添えて持ってきてくれる。遠いアルプス山中からひいてくる岩清水だ。コップ一杯の水とコーヒーだけを持ってきてくれるウェイトレスが、ザルツブルグでは、なんと心をこめ、お客の目をひたと見つめてサービスしてくれることだろう。何かを聞けば必ず正確な返事がかえってくる。若い女性が人間らしくいきいきとしている。これがうれしい。」
 ザルツブルグで過ごした友人は、次第に心をいやし、元気になっていった。人形劇場で、「魔笛」の人形芝居を観た夜、彼はすっかり人が変ってしまった。旅は成功した。
 旅の中で歩いた小径のなかには、深く心に残ってその人の精神性に影響を与えるものがある。小径にはただよう生活感があり、自然な風土があり、たぶん歩く人間のリズムや速度や呼吸や心臓の鼓動と、目に入るもの、耳に聞こえるもの、肌にふれるもの、身近に感じるそれらが、人の心に作用するのだろう。
 小径の美への視点を取り戻したい。