感情のコントロール



 昨年のこと、時間をもてあましている感じに見えた女子生徒に「アンネの日記」を読みましたかと聞いたら、読んでいないというから、家から持っていって貸してあげた。高校生だが、この種の本をまったく読んでいないようだった。女の子は数日後読みましたといって本を持ってきた。そのとき彼女は一言「よかったです」と感想を言った。
 「アンネ」関係の本が東京の各地の図書館で大量に破られるという事件が起こった。ああ、やっぱり、と思う。この時代、この世相、起こりそうなことだ。しかし、犯人像はまったく分からない。この犯人、「アンネの日記」を読んでいるのだろうか。たぶん読んだことはないのではないかと思う。何者かからインプットされた思想で動いているのではなかろうか。こういう行為は「憎悪」などの他者を否定し攻撃する感情がなければできない。
 人間の感情には、他者に攻撃的に向かう感情と、他者へ親和・友好的に向かう感情と、自己の内に閉じていく感情とがある。
 憎悪、嫌悪、うらみ、怒り、差別などは、他者を否定し攻撃的に向かう感情。
 愛情、慕情、友情、優しさ、尊敬、憧憬などは、他者へ親和的に友好的に向かう感情。
 悲哀、苦悩、寂寥、虚無感などは、自己の内に閉じていく感情。
ヘイトスピーチ(憎悪表現)を叫んでいる人たちは、愛国心はあるように見えるが、心を占めているのが、嫌悪、憎悪の感情であるから、意図するところは破壊である。ヘイトスピーチを吐いている人は、相手をおとしめる毒素をまきちらす。その毒素を受けると、相手の心にも怒りや憎しみを引き起こす。憎しみが増幅して、対立が起こったり、戦争の引き金を引くきっかけになったりする。憎悪は相手を傷つけ、わが身をも傷つける。あげくのはてはどちらをも破滅させる。
 戦争が起こればこの感情をさらに増幅させ、戦意高揚が図られる。敵は悪であるから、殺すことは当然のことであると思い込む。ヘイトスピーチ(憎悪表現)が起こる社会は危険である。ひそかに「アンネの日記」を破る行為が出てきたということは、何かが進行しているのだろうか。
 ところで、憎しみ、嫌悪、うらみ、怒り、差別、反感などの感情は、言葉や行為が伴わなくとも、方向性をもった鋭い感情だから、相手に伝わりやすい。無言のうちに相手に感情が伝わっていく。
 教師が最も重視し、注意しなければならないのは、このネガティブ感情である。この感情をコントロールできない人は教師になってはいけない。しかしそうは言っても、教員採用試験でそれを調べることはできない。さすれば、大学での教育であり、教員になってからの研修であるが、そういう問題を取り上げている様子はない。
 学級担任が、クラスの生徒と感情的に対立したり、生徒を嫌悪したりするようなことは実際に起きる。カウンセリングを学んで、「受容、傾聴、共感」ということを方法論として知っていても、子どもと向かい合ったときに、教師のなかに言葉や行為に現れないネガティブ感情があると、それは必ず子どもに伝わる。子どもは冷たい氷のようなものを感じ取る。そうなったら、これはもうカウンセリングなんてものではなく、その反対のことになる。
 新任の教師がぶつかる壁はいろいろあるが、生徒が言うことをきかず、自分の指導が入らないという事態に遭遇したとき、教師の感情はどのように動くか、その衝撃が大きくて壁を乗り越える力が湧いてこない人も多い。あの子は「困った子だ」「嫌な子だ」「変な子だ」「悪い子だ」「だめな子だ」などのネガティブ感情を抱かなかった教師はたぶんいないだろう。湧いてくるネガティブ感情をどうするか。それを何とかしなければならないのだ。
 自分自身の教師人生を振り返ってみると、あの時、あの子に行なった「指導」はいったいなんだったかと、歯ぎしりするような自責の念が心の奥にある。ネガティブ感情に支配されているとき、とことん自分を見つめることしかないが、自分を見つめることをサポートしてくれる同僚や先輩がいると、ネガティブ感情を解き放つ働きをしてくれることがある。互いに交流し切磋琢磨し、学びあい、共感しあう教師集団の大切さだ。いま自分はこういう状態にある、苦しんでいると、仲間に出すことができる、そういう職場づくりが必要なのだ。教師はほんとうに教育のプロになれるか。

 政府が「自虐史観」とかと批判して、教科書内容に手をつけようとしている。この言葉の歴史も教師は知っておかねばならない。戦後民主主義教育における歴史教育は過去を直視しようとした。過ちを棚に挙げるのではなく事実を科学しようとした。「自虐」ではなく「自省」であった。