差別反対を訴えるデモ

 韓国人・朝鮮人への憎しみをあおり立てる差別的な「ヘイトスピーチ」を叫ぶデモがまかりとおる日本になってしもうたかと、暗澹とした気持ちになっていたが、差別反対を訴えるデモ行進が東京・新宿で22日にあり、約1200人が参加したというニュースを報道で知った。  「一緒に生きよう」と書かれたプラカードを掲げたデモは、1963年にキング牧師らが人種差別撤廃を訴えた「ワシントン大行進」がモデルだという。
 デモは、14日、大阪市の御堂筋でも行なわれ、
 「人種差別は許さへん」、
と、約600人が参加したとのことだ。
 やっと市民の抗議行動が活発化してきた。そこに参加できない自分がはがゆい。
 「ヘイトスピーチ」のデモでは、他者に対して、おおっぴらに「殺せ」とか「死ね」とかの言葉を大声で発している。何の抵抗も感じないで、こういうことができるというのは、どういう精神の状況なんだろうか。
 かつてぼくは25年間、部落差別や民族差別、障害者差別をなくすために、反差別の運動団体や教職員組合の運動に参加していた。闘志盛んな、連帯感の強い運動だった。あの当時「ヘイトスピーチ」のデモなんて起こる余地がなかった。
 それから後、学校で陰湿な「いじめ」の問題が発生するようになった。「殺せ」とか「死ね」という言葉が子どもの世界に現れ、それへの抵抗感が薄れてきた。
 特定の弱い誰かを標的にする「いじめ」。「ヘイトスピーチ」は、この構造と共通するものがある。一種の集団ゲーム的な行動で、標的を憎み、差別し、攻撃する。脆弱な精神が集団化して、攻撃することを楽しんでいる。街なかで、差別をともに楽しみ、それが愛国だと錯覚する仲間が集まっている。
 この現象は、失業者、派遣社員、ホームレスなど底辺層が拡大する社会状況とつながっている。格差が広がってきた国の構造が、排除や差別の意識を助長する。
 ヨーロッパの多くの国ではヘイトスピーチ規制法がある。表現の自由を守るためにも差別的言説を処罰する。「言論の自由」を使って威嚇、差別・迫害の扇動をすることは、国際法の世界では人道の罪にあたる。
それは歴史の必然だった。専制国家の権力者は表現の自由を抑圧し、少数民族・被差別者を迫害した。ナチスの強烈な記憶もある。日本、ソ連、中国の歴史にもある。現代ヨーロッパでは、外国からの移民・難民を受け入れている関係上、排除の意識も生まれやすい。少数者、弱者、異民族など、他者を排除しようとする憎悪が、表現となって現れてくると、とどのつまり国民の人権の抑圧へはねかえってくる。
日本には法律がない。だからこそ差別を許さない社会へと、市民のモラルを高める必要がある。

 高賛侑君はルポライターとして世界の諸国を探訪し、「在日&在外コリアン」というルポを出版した。(解放出版社
 そのなかで、カナダの多文化主義を紹介している。

 <各国で生きるコリアンを訪ね、在日同胞の状況と比較した私は、在外コリアンの中で最もきわだった差別を受けているのは、在日同胞だと結論づけるにいたった。以前は他国においてもさまざまな問題があったが、いまなお、しかも政府自らが法・制度的な差別を温存・助長しているのは日本だけだからである。
 私が目からうろこが落ちるほどの体験をしたのは、97年のカナダ研修旅行だった。
 私たちはカナダで多文化主義が高度に具現化されている様を目の当たりにして強いカルチャーショックにとらわれた。‥‥
 71年、当時のトルドー首相は、国家の統一を維持するため、多文化主義を公式政策にすると発表した。‥‥
 ・多文化政策担当大臣の任命。(72年)
 ・「権利と自由に関するカナダ憲章」の制定。(85年)
 ・「カナダ多文化政策法」を制定。(88年)
 「カナダ多文化政策法」は、「カナダ憲法はすべての個人が法の下に平等である」と確認し、「多文化主義はカナダの将来を形成するうえでかけがえのない資源となる」と高らかにうたった。そして人種差別は解消され、原住民、女性、障害者などあらゆるマイノリティの人権が全面的に保障される社会に変わった。‥‥
 カナダでは、移民に対してカナダ国籍の取得を決して強いず、永住権さえ取得すれば市民権とほぼ同等の権利を保障する。
 国際化とは、国内に多数の外国人が存在するのは至極当然だということを前提とする。とすれば外国人を外国人のままで尊重するカナダ的発想の方が理にかなっている。
 つまるところ、人間を管理対象と見なす国家主義から脱却し、多様なアイデンティティの人間をあるがままに認め合うことこそが、国際化時代にふさわしい社会のあり方であると確信したことが、カナダで学んだ最大の収穫であった。>

 高賛侑君は、「ルポルタージュ 在日&在外コリアン」を2004年に出版している。彼からこの本をいただいたのは、今年春だった。
 2013年、いったい日本の何が変わったか。正視できない殺伐とした「ヘイトスピーチ」デモの登場、学校のいじめ、社会の底辺の人権侵害、変わらぬ差別である。
 差別反対を訴えるデモは、市民による新たな動きである。個々の市民が自分の頭で考え、今生きているところでやれることをやっていくことだ。