慰安婦問題を乗り越えていく道


 国会・衆院予算委員会の中継をテレビで見た。日本維新の会山田宏氏が質問に立っている。「アメリカの各地で、韓国系アメリカ人の運動によって慰安婦像が建てられている、アメリカの学校に通う日本人の子どもはつらい不名誉な思いで、日本人であることを隠したい子もいる、慰安婦問題が日韓の間で問題になるきっかけは1993年の河野談話だったが、そのときの事実経緯をただしたい」というのが山田氏の論点だった。証言者に、当時官房副長官だった石原信雄氏が参考人として出席し、山田氏の質問に答えた。
 「1991年、韓国の元慰安婦から日本政府へ提訴があり、韓国政府からも調査を要求してきた。だが、厚生省に資料がなく、各省に資料収集を要請した結果、強制的に従事させたという資料はなかった。再調査もしたが強制的な募集を裏付ける客観的データはなかった。そこで韓国側から『彼女たちの話を聞いてもらいたい』と言われ、政府内で協議して、『日韓両国の将来のために話を聞くことが事態の打開になれば』と、元慰安婦16人から聞き取り調査をした」。
 石原氏はそういう経過を述べて、慰安婦の証言をもとにして、直接、日本政府・日本軍が強制的に募集したということを裏付ける資料は無かったが、募集業者に官憲が関わったことは否定できない、募集は業者が行って、その業者の募集の過程で官憲とか軍が関わった可能性がある、日本政府・日本軍の直接的な指示で募集したことを認めたわけではない、と答弁した。
 今、日本と韓国の関係はきわめてよくない。衆院予算委員会の討議を聞いていて、山田氏の憂えは理解できるが、問題のとらえ方に重要な認識の欠落があると思った。
 それは「隠す」がキーワードになる。「隠す」という精神の作用にかかわる認識である。当時の政府や軍は、慰安所慰安婦のことは隠したい、自国民にも外国にも隠したい。だから公的な記録に残されなかった。その記憶はどこに残っているかと言えば、帰還した兵士、除隊した兵士の口からわずかに語られる体験の記憶と、被害を受けた戦場の住民に残る記憶と、そして元慰安婦の心身に残る体験の記憶である。それらは文書としての記録ではない。文書として客観的に書かれた記録がないからには、人間が語る証言から事実を明らかにしなければならない。
 戦場の体験を持っている人たちは、今どんどん亡くなっている。記憶を有する80代、90代の人たちはわずかになってきている。
 戦後、戦場体験を持つ人は心にのしかかる重い過去ゆえに、口をつぐむ人が多かった。殺戮と死を直接体験した人は、心の傷の痛さつらさに耐え、口をつぐんで戦後を生きてきた。しかし今、自分のわずかな余生を思うとき、人間の尊厳をかけて真実を語ろうと思う人たちが、口を開き始めている。
 同じように、元慰安婦の人生も「隠す」人生だった。慰安婦であったことを明らかにすればどのような結果が待っていることか想像に難くない。それにもかかわらず、韓国の元慰安婦は、「隠す」生き方をやめて、心の傷の痛みにうめきながら口を開いたのではないかと想像する。それは大きな勇気だったろう。そのような女性は中国にもいる。みんな80代、90代であり、ほとんどの人は他界した。
 このような人こそ歴史の証人である。歴史を証明するのは、文書記録だけではない。
 長い人生を生きてきた戦場の被害者の、心に深く抱く、悲しみ、苦悩を、現代に生きるものは想像力を働かせ、感じ取ることができるか、そこに私たちの人間性が現れてくるのではないか。
 在アメリカの日本人の子どもたちに、そして在日本の子どもたちに、胸はって共に生きる力をもたせたい。それは日本国民が過去と真摯に向き合って、人間の尊厳を守る生き方をしていることを子どもたちに示すことによってできることだと思う。

 1993年8月、宮沢内閣の河野官房長官は談話を公表した。慰安所は「当時の軍当局の要請により設営され」、慰安所の設置や管理、慰安婦の移送に「旧日本軍が直接あるいは間接に関与した」、それは「多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた」。談話の最後に、元慰安婦への心からのお詫びと反省の気持ちが述べられている。