「在日」の歴史を知る

 読売新聞社が1999年に出版した「20世紀 戦争編 日本の戦争」に、二人の韓国人、金成壽さんと李圭哲さんから取材した記事が載っている。
 
 「朝鮮統治『内鮮一体』掲げ皇民化」の項にその記事がある。日本が朝鮮を植民地にしたのは1910年。金成壽さんと李圭哲さんは、1931年春に日本が統治する韓国の小学校に入学した。
 「国語は日本語。週に5時間の朝鮮語の授業はあったが、算数、、修身、歴史、授業はすべて日本語で行われた。その朝鮮語の授業も5年生になったとき消えた。子どもたちは名刺大の日本語奨励カードを持たされ、表には『国語奨励』、裏には『はいありがとう』と書かれていた。休み時間でも朝鮮語を話すと、相手に一枚ずつカードを取り上げられた。月末にカードの多い生徒はほめられた。」
1936年、陸軍大将南次郎が朝鮮総督に就任、「内鮮一体」をスローガンに「皇国臣民化」を強力に推進する。朝鮮語の教育は事実上廃止された。
1937年、「皇国臣民の誓詞」を制定、朝礼ごとに子どもたちに唱和させる。「我らは皇国臣民なり。忠誠をもって君国に報ぜん」と。生徒たちは東京の皇居に向かって宮城遙拝をした。
1939年、名前を日本式に改める「創氏改名」の政令公布。金成壽さんは大立俊雄、李圭哲さんは木下朝幹に改名した。
1941年、太平洋戦争が勃発。金成壽さんは高等普通学校の五年生だったが担任の日本人教師に「帝国陸軍に志願しないか」と勧められて皇軍兵士となる。
1944年、金さんはビルマ南部ワラバン付近の戦闘で左下腿、右肩甲部、腰部盲貫迫撃砲破片創を受ける。
1944年、植民地朝鮮に徴兵制が布かれた。朝鮮人も日本軍の兵士として召集令状一枚で狩りだされて戦場へ向かう。
 1945年、金さんはビルマ兵站病院で爆撃に遭い右腕を失う。
 一方、李圭哲さんは農業学校を卒業後、朝鮮の国民学校の教師となったが、1945年8月9日に赤紙を受け取り関東軍に応召。ソ連軍の参戦による根こそぎ召集だった。一週間後、日本の敗戦で関東軍武装解除、李さんのいた部隊はシベリアに送られた。シベリアでの生活は、氷点下40度の酷寒と飢えのなか森林伐採の苦役であった。「朝鮮人なのに、なぜ日本の戦いに巻き込まれ、こんな地獄を見るのか」、初めて朝鮮人として目覚めた李さんの述懐だった。
 1952年、二人はサンフランシスコ講和条約で法的に「日本国籍」を失い、韓国人にもどった。その結果、元日本軍兵士に支給される軍人恩給制度から見捨てられる。
 1992年、金さんは、日本の厚生省が発行した受傷証明書を添えて軍人恩給の支払いを求め、東京地裁に提訴した。1998年、判決は敗訴。国籍条項が壁となった。裁判長は、金さんにこう語りかけたという。
 「国際関係のなかで、なぜ原告の恩給権がなくなってしまったのか。国籍条項の問題だけでなく、戦争賠償一般の問題につながってくる。判断は難しい」と。
 敗戦後、日本にいた朝鮮人・韓国人は、独立した祖国へ帰っていった。しかし、朝鮮戦争、南北分断などの不安定な状況によって、多くの人が日本に残った。
 現在の在日朝鮮人・韓国人は、36年間にわたる日本の植民地政策がもたらした結果である。
 旧内務省警保局の統計によると、「日韓併合直前の1909年、日本に住む朝鮮人の数は790人で、大半が留学生だった。1920年には三万人、30年には三十万人、38年には八十万人と激増した。39年からは炭坑や港湾労働者としての強制的な徴用(強制連行)が始まり、終戦直前の1945年5月には、二百十万人と推計されている。」
 歴史の一端を知るために、「昭和万葉集」より、いくつか歌を拾い集めた。
 内野幸子の歌。
     千余り 半島の子ら いっせいに 皇国臣民の誓詞 となへつ涙ながれぬ
 <千余人の朝鮮の子どもたちがいっせいに誓詞を唱えている。私はそれを見ると涙が流れた。>
 昭和16年の「婦人倶楽部」に載った歌。作者の涙は、朝鮮半島の子どもらが日本の子どもになったことに感動したとも考えられるが、植民地化によって皇国臣民を強制される子どもたちの姿を見ての悲しみの涙だとぼくには思える。
 同じく「昭和万葉集」より、秋葉輝雄の歌。
     朝鮮の 故郷の祭り するらしも 飯場(はんば)の土工 歌ひさざめく
 <朝鮮半島から連れてこられた土工たちが、故郷の祭りをするらしい。飯場の彼らは歌いさざめいている。>
 昭和14年に、国民徴用令が公布された。それは18年に改正され、国家が必要と認めた場合は、どのような職種の技能・技術者も指定の職場に徴用できた。朝鮮半島でも徴用が実施され、ほとんど強制的に連行され、日本各地の炭坑や土木工事の現場で重労働に従事させられた。中国人や捕虜も多数が奴隷同然の労働に従事させられた。朝鮮人72万人、中国人4万人が強制連行された。(「昭和万葉集」巻6注)
 「昭和万葉集」より、安蘇潔の歌。
     朝鮮の少女 辻に立ち乞ふ 千人針 はかどりがたし 今日も見て過ぎぬ
 <朝鮮の少女が辻に立って、千人針に協力をお願いしますと言っている。協力する人は少なく、はかどらない。それを見て今日も通り過ぎて行った。>
 千人針は、日本の兵士が召集されて戦場にいくとき、家族が千人針を持たせて、武運長久の祈りを込めた。千人針は、1枚の布に千人の女性が赤糸で一針ずつ縫って、千個の縫い玉をつくり、出征兵士の安泰を祈願した。兵士はそれを持って戦地へ向かった。この歌を読むと、千人針は朝鮮でも行われのだ。少女は召集されていく父のために街の辻に立って、道行く人に一針縫ってほしいと頼んでいる。しかし、千人という数までいくのはなかなか大変だ。赤紙が来てから召集令状に書いてある入営の日まではそんなに時間的余裕がない。千人まで行ってほしい、作者もまた気をもんでいるのである。
 そしてこの歌。巻5に収められた帰還兵の歌である。上稲吉、アララギ歌人
      戦場の 性生活を 殺戮を 恐怖を聞きて或者は 我を試験するが如し
 戦地から帰ってきた兵士は、その体験をあまり語りたがらなかった。戦後の連合国側による戦争犯罪者追及の世情もあったし、戦場で行ってきたことを言葉にするにははばかられる思いがあったからだ。この歌は、その戦場体験を話している。戦場で女性に対してやったこと、殺したこと、戦いの恐怖、それらを聞く者たちはさらにいろいろと質問もする。聞く人たちは、帰還兵を試験しているようであった。上稲吉はもともと教員であった。「戦場の性生活」には、慰安婦のこともあったろう、また現地人女性へのこともあったろう。


 「昭和万葉集」には、よくぞこれだけと思えるほどたくさんの戦場短歌が載せられている。それらは戦場や銃後の自らが体験したこと、心に思ったこと、真実を詠っている。いつ、どこで、何があったかという事柄、出来事を知るだけでは歴史を学んだことにならない。学ぶことは、その歴史の真実を知ることである。どうしてそういうことが起こったのだろう。どういういきさつで、何が原因でこうなったのだろう。それを知るには、体験した人の言葉を読み取ることも必要になる。いろんなアプローチから歴史を追求していくその過程が歴史の学習なのだ。
 今の日本の教育は、そういう学びが空洞化しているように思える。「在日」を知るには、近現代史、戦争のなかを生きた人たち、被害や犠牲、苦悩や悲しみを知ることである。それを怠り、ごまかしてきた結果として現在の問題がある。