滅び行くもの移り行くもの


         <写真 農業高校の牛>

 新聞掲載の朝日花壇と俳壇を読んだ。選者、馬場あき子が「夕張から福島に移って被災した」と記している人の歌である。

   廃鉱の街に住みにし歳月を廃炉の地にて思えば小雪                     福島市 美原凍子

  夕張炭鉱は北海道石狩炭田にあった。夕張が市になったのは1943年だった。まだ戦争が熾烈を極めたときである。市は炭鉱とともに人口が増え発展するが、戦後の経済発展期のエネルギー革命と政策によって炭鉱は衰退し、石油、ガス、原子力へと移行した。南大夕張炭鉱は1990年に閉山となった。最盛期の人口12万人だった夕張市の人口は、今は1万人。65歳以上の高齢者は4割を占める。
 九州福岡には三池炭鉱があった。「総資本対総労働の対決」と呼ばれた歴史に残る三池争議の舞台だった、三池炭鉱は1997年に閉山となった。
 炭鉱の歴史は、日本の心棒を支えて力強く生き、そして滅びて行った者たちの物語である。三池で歌われた労働歌がある。

1.みんな仲間だ 炭掘る仲間
  ロープ のびきる まおろし切羽
  未来の壁に たくましく
  この つるはしを 打ち込もう
2.みんな仲間だ 炭掘る仲間
  たたかいすすめた おれたちの
  闇を貫く 歌声が
  おい 聞こえるぞ 地底から
3.みんな仲間だ 炭掘る仲間
  つらい時には 手をとりあおう
  家族ぐるみの あと押しが
  明るいあしたを 呼んでいる
4.みんな仲間だ 働く仲間
  煙る三池の たてよこ結ぶ
  旗に平和と 幸せを
  三池炭鉱労働者
  三池炭鉱労働者

 衰退の夕張から作者は福島に移った。福島と茨城の境にはかつて常磐炭田があった。阿武隈高地の東麓から太平洋岸に至る広い地域だった。そこにも炭掘る人たちが住み着いた。炭層は太平洋の海底にまで及んでいた。この炭鉱は1976年に全面閉鎖された。そして福島に原子力発電所が建設された。
 夕張炭鉱は廃鉱となり、生涯そこに生きて人生を全うしようとした作者の思いは断たれ、福島に移り住んだけれども、そこで福島の原子力発電所の事故に遭遇した。作者は呆然と廃炉の地にたたずむ。ここもまた去り行く土地になるのだろうか。長く住んだ北海道の炭鉱街を思い浮かべ、見上げる作者の上に小雪が降ってくる。かの地も雪、この地も雪。
 次の歌も被災地の人の歌。

    白鳥の鳴き交わしゆく空残し原発被災地枯野となりぬ
                   南相馬市 深町一夫

 白鳥が鳴き交わして飛んでゆく。列を作って飛ぶ白鳥の全き命である。命の飛び過ぎていったあとに残った空。原発被災地は人住まぬ枯野となってしまった。廃炉となった原発が枯野の中に立っている。この滅びの空虚感はしんしんと胸に迫る。
 常磐炭鉱は1976年に全面閉鎖された。そして福島県原発立県へと移行する。
 1969年、 福島県東京電力の間で「原子力発電所の安全確保に関する協定」が締結され、「福島原子力発電準備事務所」が発足した。
 1970年7月、1号機において核燃料を初めて装荷。11月、1号機の試運転を開始する。
 1971年3月、1号機の営業運転を開始する。
 1974年、福島第二原子力建設所が設置される。7月、第一原発2号機の営業運転を開始。
 1976年、「原子力発電所周辺地域の安全確保に関する協定」を「立地4町を加えた三者協定」へと改定する。 3月、3号機の営業運転を開始する。

 朝日花壇には次の歌も。

     フクシマの傷ざっくりとあくごとし人住まぬ家の窓窓の闇
                     三鷹市 増田テルヨ   

そして、俳壇の金子兜太が選んだ一句。被災地で生きる被曝した牛、そして農夫。それでも生きる。生きつづけねばならぬ。

       白息の核の牛連れ生きている
                名古屋市 鈴木誠