オーストリアの原発

 九州電力の川内(せんだい)原発が再び動き出すというニュースが今朝の新聞のトップニュースに出ていた。原子力規制委員会が、規制基準を満たしていると、稼動を認める審査結果を出したからだ。安倍政権は「お墨付き」を得たとして他の原発も再稼動させるつもりだ。
 これが日本なのだ。
 オーストリアには、原発はかつて一機あったが、今は廃炉になっていて一機もない。この歴史をたどると、日本とオーストリアの違いを知ることが出来る。このことについて朝日新聞が報じていた。
 オーストリアでは伝統的に水力発電が主流だ。2009年の総発電量の62,3% が水力で、33,9 % が火力、2,9 %が風力・太陽光など再生可能エネルギー源で行われており、その他を輸入している。
 国民1人あたりの年間消費電力量は1569 キロワット時(工業用を除く)。今後は再生可能エネルギーによる発電をさらに推進し、輸入電力に頼らない、つまり原発でつくられた電力は買わないと国は決めた。他の国から買うときは何によって発電されたものか「電源証明書」をつけることが義務付けられ、発電方法がわからない電力の販売は禁止される。つまり間接的な原発依存からの脱却を2015年までに確立するという画期的な方針の決定である。
 さらに2020年までには再生可能エネルギーの割合を電力消費量全体の34%にまで引き上げ、エネルギー効率を20%高め、温室効果ガス排出量を大幅に引き下げることを目標にしている。

 オーストリアにはかつてツヴェンテンドルフ原発があった。
 1978年11月5日、ツヴェンテンドルフ原発の運転と、他の原発の建設の是非を問う国民投票が行われた。結果は、「運転・建設反対」が全体の50.47%。この決定を機にツヴェンテンドルフ原発は一度も運転されることがなかった。
 そのいきさつは、岩波書店発行の雑誌「世界」4月号に書かれている。筆者はオーストリアの科学者、ペーター・ウェイッシュと、エネルギー政策専門家のルパート・クリスチャン。論文のタイトルは「オーストリア原子力への『ノー』 なぜ脱原発が可能だったのか」
 以下論文を要約する。

 1972年、首都ウィーンから20マイルほどドナウ川をさかのぼったツヴェンテンドルフで、ドイツのクラフトヴェルク・ユニオン(AEGとシーメンス)が、最初の原子力発電所の建設を始めた。オーストリアの発電量の約10%を発電することが期待された。
 1974年に入ると、オーストリアに二つめの原子力発電所を建設する会社が設立された。
60年代末に生まれた、10人ばかりの反原発運動は、それから着実に広がり、二つめの原子力発電所建設反対に集中的に取り組むこととなった。
1974年冬、二つめの原子力発電所の着工計画が延期された。理由の一つは電力需要の伸びが鈍化したことと、地元の大反対であった。
 1976年秋、原子力計画を正当化し、反対を和らげようと、政府は原子力に関する情報キャンペーンを始める。しかし、その結果は正反対となった。いくつかの新聞がはじめて、原子力に批判的な記事を特集し、反原発運動は勢いを得る。
 核廃棄物の問題をどうするのか、他国へ輸出するのか、そんなことはできない。核廃棄物の貯蔵候補地として名が上がった地域では大反対が起こった。新聞が原子力問題を大きく取り上げ始めるようになった。
 1977年4月、ザルツブルクで、諸国のNGOが組織した「原子力のない将来のための国際会議」が開催された。
 1977年秋、オーストリアの都市で、大規模なデモが行われた。
 その年の12月、秘密裏でツヴェンテンドルフ原子炉へ燃料が輸入されようとしている計画が発覚する。国民の反対運動は盛り上がり、核燃料の輸送を阻む行動が宣言された。
 それに対して国は対抗する。1978年、燃料の輸送に軍のヘリコプターが使われた。
 だが、ツヴェンテンドルフ発電所の稼働開始に賛成する政党は総選挙で敗北することとなった。
 原子力推進勢力は、莫大な資金を持って闘いに入った。しかし反原発運動は広く広汎に展開した。
 「原子力に反対する母の会」
 「原子力に反対する教師の会」
 「原子力に反対する物理学者の会」
 「原子力に反対する労働組合員の会」、
 「原子力に反対するオーストリア学生連盟」
 生物学者、地質学者、医者、生徒、教会信者、アーティスト、科学者と市民グループの協力態勢が生まれた。オーストリア国民投票に付すことにした。
 しかし、原発反対勢力が国の過半数を超えるという希望はほとんどなかった。
 ところが、考えられないことが起こった。
 1978年11月5日、国民投票の結果は、原子力発電所に反対する票が、僅差で過半数を超えたのである。有権者の3分の2近くが投票に行き、49.5%が原子力発電に賛成、50.5%が反対の票を投じた。
 これはオーストリアの戦後史のなかでも特記すべき出来事である。オーストリアにおける原子力エネルギーは拒否された。
 即刻11月15日、オーストリア議会は全会一致で「オーストリアにおいては電力生産のために、原子力エネルギーを用いることを禁ずる」と言う法律を通過させた。
 それから数カ月もたたないうちに、米国ハリスバーグで、スリーマイル島原発事故が起こった。オーストリアの多くの人々は、「原子力なし」というのは賢明な意思決定だったことを認識することとなった。

 ツヴェンテンドルフ原発の総工費は、約6億5000万ユーロ。今日までの維持費総額は約10億ユーロに上るという。搬入済みだった核燃料は80年代までかけてすべて搬出した。
 ソビエトチェルノブイリ原子力発電所事故は、1986年4月26日に起こった。放射能はヨーロッパの国々にも流れた。
 99年、連邦憲法に「オーストリア核兵器を製造したり、保有したり、実験したり、輸送したりすることは許されない。原子力発電所を建設してはならず、建設した場合にはこれを稼動させてはならない」の項が盛り込まれた。
 かくして反核の誓いは不動のものとなった。
 2003年、「グリーン電力法2002」が施行された。初めてグリーン電力の販売に関する条件が全国的に管理されるようになった。

 2011年3月11日、福島の原発事故が起こる。
 すぐさまオーストリアの、経済家庭青少年省のラインホルト・ミッテルレーナー大臣はコメントを発表した。
 「日本の原発事故は、原子力発電が決して安全で持続的な発電手段でないことを露呈した。この脅威に対する正しい答えはただひとつ、原発の撤廃である。それがすぐに実現できないなら、しかるべき安全措置が講じられるべきだ。オーストリアEU内の原発に対する“ストレス・テスト”と、その結果の公表を要請する」